注尊像の中尊に同一の印を認めることができる。また両手先が後補ではあったが,左右の手ともに第一・三指を相捻ずるという悲田院(その一)像の印も,やはり泉屋博古館の阿弥陀三尊像の中尊など高麗画に例を見いだすことができる。鄭子澤氏によると,法道寺本は十三世紀後半,泉屋博古館本は十四世紀前半の作という(注17)が,同氏も注目されたように,カラホト伝来のエルミタージュ美術館蔵阿弥陀三尊図の中尊がこれに近い印をしめす(注18)。エルミタージュ本三尊図は宋末元初の作といわれ(注19),敦煙画に通ずる作風をもつもので,服制からみて中原の影響下にあることが考えられる。だとすれば,宋代にこの印が存在した可能性が出てこよう(注20)。作者については,快慶の浄土寺像を喘矢として,慶派系の仏師の作と考えられるものが多かった。しかしふつう,腺像の図像の決定権は仏師の側にはない。おそらくは願主ないしその意をうけた僧侶によって決められることが多いであろう。したがって,慶派の仏師を好んで起用した人々の間に,逆手来迎印に対する関心が強かったとみることはできる。重源の場合はその端的な例である。とくに,東大寺復興の立役者となった重源が造らせた浄土寺および新大仏寺の二謳の巨像の他への影響力は軽視できないだろう(注21)。最後に,印相・着衣などの図像ないし形式面において宋画を手本とし,その意味において宋風を追求した逆手来迎印の作品群も,こと作風に関しては東博像が唯一濃密な宋様式を滲ませるにとどまり,他はどこまでもその作者ないし工房に固有の作風をしめしているとみることができる。浄土寺像において重源と快慶が,手本としたであろう宋画から意図的な乖離をこころみた部分があるという意味の先の山本泰ー氏の指摘(注4)が改めて想起される。結局,鎌倉時代前期の彫刻とは「宋仏画から形をかりて,各作家がそれぞれに独自に表現を行ったもの」(注22)という評価は,ここでとりあげた諸像についての検討からも追認されるべきであろう。(1) 毛利久「快慶拾遺」(『仏教芸術』七ー,昭和四四年,のち同『仏師快慶論増補版』所収,吉川弘文館,昭和六一年)また近年の調査により,建久六年四月十五日の像内銘が確認され,像の造立はこれに近い時期と推測される。―-169-
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