⑬ 1920年代初頭の日本とフランスのセザニスムー一知覚主義からフォルマリスムヘ/知覚主義から人格主義ヘ一一研究者:京都国立近代美術館主任研究官(文部技官)永井隆則れたこのテキストは,ピュリスムの立場から批判的にセザンヌの美学と実践,そしてそれが同時代の作家たちに継承されている当時の状況を明らかにしたものである。セザンヌがフランスで評価され広く知られるようになったのは今世紀に入ってからだと言ってよいが,このテキストは,1920年代初頭のフランスにおけるセザンヌ評価の一例にとどまらず,当時のフランスの美術状況の中でセザンヌが一つの参照すべき価値として承認され浸透し,一つの“イスム”としてイデオロジックな力を持っていたことを証言している(注1)。一方,我が国に於いてセザンヌの名前は遅くとも1902年の『美術新報』にその名が登場し,1910年有島生馬により本格的に紹介されて以来,多くの人々がセザンヌに言及していった。彼らは当時入手できる欧米のテキストを翻訳し欧米人の抱いていたセザンヌ像を紹介する作業にとどまらず,欧米の文献を頼りにセザンヌ像を形成していったが,1910年代から1920年代初頭にかけて日本人固有のセザンヌ解釈,セザンヌ像が形成され,同時代のフランスと同様に,“セザニスム”と呼んで差し支えない,セザンヌの流行現象が生じる(注2)。初期セザンヌ論に欧米のセザンヌ論の歪曲,曲解や我田引水があることはこれまで指摘されてきたことだが,ある文化固の作家を別の文化圏のものが理解する時,当の作家の文化圏の理解の仕方と同じであるべきだという掟はどこにもない(注3)。初期のセザニアンは彼ら固有の視点からセザンヌの価値を発見したはずで,当時のフランスの視点,ましてや今日常識として蓄積されてきた十九世紀フランス美術史の知識やセザンヌ解釈の現状から判断して,当時の日本人の解釈を“誤り,未熟,素朴”として切り捨てることは不当であろう。以上の反省に立って,本研究では議論の設定の仕方を変えてみることにする。本研究では,1920年代初頭という同一地平線上に立って,フランスと日本との間にセザンヌ像に関してどのようなギャップが横たわっていたの問題の所在1921年セヴェリーニの「セザンヌとセザニスム」が雑誌『エスプリ・ヌヴォー』(第2, 13号)に発表された。画家ポール・セザンヌ(1839-1906)の没後15年目に書か-173-
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