1) 1920年代初頭のフランスのセザニスム~ロ覚主義からフォルマリスムへ1920年代に発表されたセザンヌ論として,セヴェリーニの上述のテキストの他に,し1890-1910年代にかけて専ら美術雑誌に発表されていたベルナール,ドニ,リヴィか,日本のセザンヌ像が当時としてはどのようなアクチュアルな要請や根拠のもとに形成されたか?という問いをまず立ててみたい。そして,両者の合流と相反を計る手段として,フランスのセザニスムの状況を要約した後で,日本人によって翻訳ないしは引用された欧米人のセザンヌ論との比較をたよりに日本人のセザンヌ論の特殊性を考察していくだろう(従って,本研究が問題とするセザニスムは,あくまで文献学的な立場からであって,制作上の交差や相反関係から見たセザンヌ像ではない)。以上の問題設定に対して,結論から始めれば,1920年代のフランスと日本のセザンヌ像をそれぞれ特徴付け両者の違いを違いとして現象させている根本的な違いは,フランスでは知覚主義の立場からフォルマリスムの立場へとセザンヌ評価の視点が移動するのに対して,日本では知覚主義から人格主義の立場へとセザンヌ評価の傾きが移動していく点にあったと思われる。こうした視点移動に着目しながら,1920年代初頭の日仏のセザニスムの状況を素描していくことが本研究のささやかな試みである。エミール・ベルナールの『セザンヌの思い出と手紙』(1907年『メルキュール・ド・フランス』誌掲載テキストの再録,1920/1921年)他,モーリス・ドニの『芸術論集』(1920年)中の「セザンヌ」(初出は1906年の『メルキュール・ド・フランス』誌),ジョアシャン・ガスケの『セザンヌ』(1921年),シャルル・カモアンの「セザンヌの思い出」(『ラムール・ダール』誌,1921年1月),ジョルジュ・リヴィエールの『巨匠セザンヌ』(1923年),アンブロワーズ・ヴォラールの『ポール・セザンヌ』(1924年,1914年初版本の増補,改訂版),ジュール・ボレリーの「エクスのセザンヌ:1902年7月」(『ラール・ヴィヴァン』誌,1926年),レオ・ラルギエの『日曜日のセザンヌ』(1925年)があった(注4)。数量的見地からではなく質的な理由から,後のセザンヌ研究者の使用する基礎資料が1920年代に集中的に刊行されたと見てよい。生前,セザンヌと交流エール,ヴォラールのセザンヌ論が“単著’'やモノグラフとして書き改められたり再録される一方で,カモアン,ボレリー,ラルギ工,ガスケといった主に1900年代前後の,晩年のセザンヌと交流した人々の証言が,十数年の沈黙の後で記憶を辿りながら知られざるセザンヌ像,独自のセザンヌ論として発表されていった。未発表のセザン-174-
元のページ ../index.html#185