ヌ像の発刊が執筆者側の意向であれ出版社の企画であれ,セザンヌが一般の興味をひく対象であるという現状認識がなければ,このような状況は生まれなかったであろう。これらのテキストはまた,何れも後のセザンヌ論者がセザンヌの言葉として引用したり,人柄,制作態度を推量する根拠として,あるいはセザンヌ論展開の着想源として参照していく基本素材となるもので,カタログ・レゾネは1936年のリオネルロ・ヴェントゥーリの仕事,書簡集の編集は1937年のリオルドの仕事(注5)を待たねばならないものの,1920年代に後のセザンヌ研究の基礎資料が出揃い始めると考えてよい。注目するところとなったセザンヌは,エクスで1900年代に彼らの訪問を受ける。このセザンヌヘの関心は,特にセザンヌの死の翌年のサロン・ドトンヌのセザンヌ回顧展によって頂点に達したことは美術史上の常識だが,実は以上見てきた1920年代の出版ラッシュにはセザンヌ評価の再来,第二のセザニスムがあったと見てよい。今日,パリのグラン・パレでいわゆるオールド・マスターの個展が開催される度に,モノグラフや画集の復刻や新刊が書店に溢れるという現象があり,そこには啓蒙的,知的というよりも商業主義的動機や仕掛けが働いていることは言うまでもない(注6)。1920年代の出版状況に美術的な関心と全く無縁な何らかの動機が働いていたかどうかについては,今の所,調査する術はない。が,セヴェリーニの言う“セザニスム”という状況が出版に拍車を掛け出版が“セザニスム”という状況に拍車を掛けた,という相関関係が生じたと判断することはあながち無理な推量ではないだろう。てこれまでの研究を簡単に復習しておきたい。1890年代末からエミール・ベルナール,モーリス・ドニはエクスのセザンヌを訪問し雑誌掲載論文を通してセザンヌ論を展開したが,それは古典的理想というフランス的精神への回帰という意味での「新伝統主義」,ないしは「新古典主義」という復古主義運動の文脈で語られたもので,彼らの言説によって印象主義に古典性を回復した画家というセザンヌの美術史的な位置付けが確立した。また,1907年のサロン・ドトンヌでセザンヌを発見した画家たちによる立体主義が,印象主義や野獣派に対する反動という意味合いを担っていたという限りにおいて,立体主義によるセザニスムヘと大きな破綻なく移行していった。思想的には,前代の個人主義,アナキスムに対する反動として,カトリシズムと国家主義の台頭という社会状況があり,芸術の領域ではプッサン,ラシーヌ,ラモーなど古典的趣味へ1895年ヴォラールが組織した第1回セザンヌ展を皮切りに,若い世代の画家たちが1920年代のセザニスムを考察する前にまず,1900年代のセザニスム発生状況につい-175-
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