が念頭に置かれていたと推察することは無理な推量であろうか(注15)。ところで,リチャード・シーフは,印象主義から象徴主義に至るまでの絵画に関する,十九世紀フランスの美術批評を丹念に調査・分析し,十九世紀フランス近代美術の近代性としてそれまで固定していた客体としての自然が主体と客体の可変的な関係の中に立ち現れるものとして認識されはじめたこと,印象主義が主観的な芸術と認識されその限りに於いて象徴主義へと連続し象徴主義に於いて主観性への重心移動が起こったことを明らかにした(注16)。十九世紀当時このように認識されていた印象主義から始まるフランス近代絵画は,栖鳳や漱石が感じていたように,二十世紀初頭の日本人にとっては日本美術と大きく異なる芸術ではなくむしろ接点を持った芸術として受容された,と推察される。つまり,主客不分離の感覚,感情(“心持ち”,“物外の神韻”,“気韻”)を絵画の主題としてきた日本画を伝統に持つ明治期の日本人は,当時の西洋画が日本画の伝統へ接近していることを感じながら近代絵画を受容していったのである。例えば,片山天弦は1908年,印象派の省略,断片化技法に主観と客観の間に生まれる主観的感覚表現を見,これを“心持ち”という日本的な美意識に置き換えながら説明した(注17)。島村抱月は,1909年,印象派に自然の直接的,瞬間的印象表現を見,その技術的特徴として“スケッチ的暗示法”に着目するとともに,特に色彩を主とする印象派の装飾性に日本画からの影響を見た(これは,おそらくH本人の言及した最も早い時期のジャポニスム論の例)(注18)。森田亀之輔は,1914年,日本美術がフランス近代絵画に及ぼした影響に触れた後で,フランス絵画の当時の動向を東洋画化,即ち主観化として理解した(注19)。セザンヌもまた,西洋画の“主観化”に伴う東西美術の交差状況があるとの現状認識の枠内で日本人の関心を引き受容され始めたと見てよいだろう。1902年久米桂一郎によって印象派の一人として紹介されたセザンヌについて(注20),1908年島崎藤村は,“セザンヌの新しき感覚”について語り(注21),1909年の上記の論考で島村はセザンヌ(島村はセザヌと表記)を印象派の中でも自然の深い感情を色彩に託した画家として記述した。1910年有島生馬はセザンヌに関して長文の論考を『白樺』に発表したが,セザンヌの絵画の中でも水彩画を評価して,色彩や筆触に着目しながら“自然についての直接的,個別的感動の記録”,“自然の真髄を直写する感覚”,“自然の形骸ではなく自然から個人的に得たコンセプション”(注22)にセザンヌ絵画の特殊性を見ている。-178-
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