鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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こうした日本的な自然観を基礎とするセザンヌ評価の視点は,一方で,1910年代初頭以来フランスの知覚主義的な立場からのセザンヌ論を翻訳によって紹介する作業の中で,そこに融合される形で徐々に浸透していった。1912年田中喜作によるモーリス・ドニ,1913年有島生馬によるエミール・ベルナール,1914年山内義雄によるレオン・ヴェルツの邦訳など(注23)。こうした翻訳作業は,言語の獲得が新たな現実の獲得と不可分であるように,日本人がかつて持ち得なかったセザンヌ絵画の知覚的側面からの受容の可能性を提供することになったし,逆に翻訳の出版はそうした視点からのセザンヌに対する関心に応えるものであったとも推量できよう。この視点からのセザンヌ論は,とりわけ制作を自ら実践する画家たちの間で,技術分析的な視点からのセザンヌ受容として展開されていった(注24)。1920年代に入って,1922年森口多里がクライヴ・ベルのセザンヌ論を引用することでラファエル前派からダダイスムまでの美術史の流れの中でセザンヌを語り(注25),1929年板垣鷹穂は,自然から出発する造形性,構築性を立体主義から区別されるセザンヌの特殊性と見なし,技法,構図,遠近法など造形上の特徴を記述した(注26)。こうして,20年代ヨーロッパの知覚主義/フォルマリスム的解釈は,時間的に大きなズレを伴うことなく日本に紹介され一般化していった,と見ることができる。他方,初期セザンヌ受容の特色が,芸術=人生論的立場から見たセザンヌ,つまりセザンヌが自己や個性を生かしたという意味で“人格的な偉大さ”を備えているとする見解にあったこと,それこそ日本人固有のセザンヌ受容であったことは『白樺』派のセザンヌ論を分析の中心に据えて,繰り返し指摘されてきたことは言うまでもない。こうしたセザンヌ評価を決定付けたのは,1912年の柳宗悦(「革命の画家」,『白樺』,年代から1920年代のセザンヌ像を規定していった。この視点は,絵画を造形や技術の産物ではなく個性の産物と見なす立場で,個性とは芸術的な感覚や感情というよりも人としての生き方,感じ方のユニークさであり,個性は人格の現れと見なされた,と。しかし,この芸術=人生論的セザンヌ解釈を主張する立場は,専ら『白樺』派の人々の言及をその思想に照らし合わせて当時のセザンヌ受容を解釈したケースが多く,ここで一般に承認されている“個性主義的人格主義的セザニスム”に若干の批判・修正を加えてみたい。現在の私たちも使用している“個性”,“人格”という言葉は,一見第3巻第1号,1912年1月号)(注27)であり,この視点は圧倒的な威力を持って1910-179-

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