鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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1910年代ヴェルツがセザンヌを巡って純粋絵画を論議し,日本にも導入されてくるフ自明なようでいてそうではない。当時の批評家の言う“人格”とは,人となり,人柄,性格といった個々人の人間的特徴を指していたわけではむろんないし,画家がどういった人生を送ったかという生活史的な意味のみを念頭に入れて使用されていたわけではない。山脇信徳が『白樺』誌上で(注28),明確に要約しているように,“人格”とは個人の内面,呼吸,リズム,そうした人間存在の一切を規定する焦点を意味していた。1910年代の美術批評を調査していくと,“人格”が枚挙に暇ないほど,美的評価の判断基準として採用されていた状況が見えてくる。そして当時の批評言語としての“人格”とは,絵画に対面した鑑賞者が視覚情報を越えてさらに直感する何か(丁度私たちが,他人に接しながら,言語化された情報とは異なった,極めて直感的なもう一つの情報を感じ取りこれによって複数の他者を識別することができるように),敢えて言えば,美的価値と人間存在の全体的な特徴が未分化のまま融合したものであった(注29)。こうした鑑賞形式と,ドニが1907年にセザンヌ絵画の自律性を語った後で,ランスの鑑賞形式との間に深い溝が横たわっていたことは言うまでもない。このギャップは1889年に交わされた森鵬外と巖本善治の芸術論争にまで遡れるだろう。真・善・美が渾然一体となった自然を想定していた巖本と西洋の美学を学んで芸術美を精神の活動の所産とし自然美とはっきり区別した鵬外との間に,自然観,ひいては芸術観の上で大きな食い違いがあったことが指摘されているが(注30),巖本の視点は日本の伝統的視点であり,そこから生き方と芸術的価値を融合させた白樺派の個性主義や美的価値と人間の存在的な価値との合体した人格概念が生まれてきたと理解することは無理な推量ではないだろう。しかし,1920年代に入ると,“人格”は西田幾多郎,阿部次郎,中井宗太郎らによって,ヨーロッパの美学を東洋思想に包摂する高次の思想,“人格主義”へと展開されていった。この時,森と巖本の対立は止揚されたとみてよい。西田は『芸術と道徳』(1923年刊,初出は1920-1923年にかけての複数の雑誌掲載論文)(注31)において,“人格”を共通の視点とした,真・善・美の成立と連関を明らかにしたが,西田にとって芸術に於いて問題となる人格とは,視覚や触覚といった感覚的世界を動かしている生命(意識や主体といってもよい)の動きであり,色や形,構図といった目に見える世界の背後に控えていて,目に見える世界を目に見えるものとして出現させている目に見えない世界であった。こうした感覚世界との対比の中で提出されてきた“人格”概念は,-180-

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