34)が,セザンヌの筆触や色彩面に,“こと”(リズム,個性),つまり視覚や意識の主1920年代に入って,“人格”という価値観は,西田,阿部,中井らの仕事によって,述されていることを付言しておきたい。人格概念は“芸術家の人柄や生き方”とは別次元の判断基準であった(注33)。美術作品を解釈する際に西田,中井の注目した“人格”という視点は,実は,1910年有島がセザンヌの技法や感覚を分析した時それらを統一する焦点として既に使用した概念であり(注22),上述した1911年の山脇信徳の論考,さらに1913年の木村荘八(注体的運動それ自体(行為)を感じ取っていた地点にまで遡ることができる。カミーユ・モークレールを翻訳し,ハインド(Hind)の批評をディレッタント的,ハネカー(Huneker)をジャーナリスト的と批判し,当時のフランスのセザンヌ論の多くを少なくとも翻訳を通して知悉していた木村のこの視点は(注35),極めて自覚的な選択であったと見てよい。とすれば,1912年の柳が説明抜きで使用している“人格”や“個性”は,いわゆる個人主義という生き方の問題を指しているだけではなく,以上のような意味合いを込めた言葉としてむしろ読むべきではないだろうか。“人格主義”として明快な意味を与えられることになるのだが,中井に於いて,セザンヌ評価の根底には,1920年代当時の日本社会の都市化や工業化,生活様式の近代化に対抗する梃子(反物質主義,精神主義)としてのセザンヌのイメージが控えており,阿部次郎の『人格主義』(1922年)(注36)においては倫理的,政治的な意味合いを帯び始める。この意味で人格主義は,美術批評の領域を遥かにはみ出して,反近代主義のイデオロギーとして使用され始めた感がある。おわりに本田秋五,高階秀爾氏が指摘するところによれば(注37),明治20年代に個人と国家の調和が自明のこととして意識されていたのに対して,明治30年代から40年代にかけて国家と対立する個人,自己がもう一つの価値観として称揚されるようになり,『白樺』のセザンヌ受容はそのような文脈から生まれた。一方,本研究の取り上げた1920年代初頭,大正10年前後のセザンヌ受容は,“人格主義”という独特の視点の成立によってなによりも注目されるが,この“人格主義”は思想として,丁度1900年代のフランスでのセザンヌ評価が国粋主義的な思想の中で発生したように,1920年代の日本において,個人を突き詰めた末に再び個人と個人を統-182-
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