鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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2.出土場所出土場所は古代の寺院跡が多く,寺院の推定地や現在の寺院境内なども含めれば寺院関係の場所が圧倒的であり,他に住居跡・城館跡・集落跡などがある。寺院跡から金銅仏が出土するのは当然なことではあるが,その量の多さにはあらためて注目される。なお,寺院跡や寺院推定地は発掘調査によって遺跡を確認していない場所が多いので,推定と伝承によるものが含まれている。次いで多いのが城館跡や集落跡からのものであるが,住居から離れていたり用途不明の土坑内の場合が多いため,当時の人々の生活と金銅仏との明確な関わりが見えてこない。そうしたなかで,唯一住居内からの出土が確認できた例が千葉県八千代市井戸向遺跡住居内出土の宝冠如来坐像(No.102,番号は別表の通し番号に準じる,以下同じ)である。この住居跡が集落内にあって小さな寺としての機能を持っていた建物なのか,あるいは一般の個人住居なのかを知る術はないが,住居内のいずれかの場所に仏像が祀られていた可能性が見て取れる。これらの金銅仏がどのような事情で土中したものかは不明であるが,火を浴びた痕跡を残す例もあるところをみると,建物の焼失・倒壊によりそのまま埋没したものも多いと考えられる。以上の金銅仏は,例外はあるものの,その多くはいわば偶然に土中したものであるが,これに対して意図的に埋納されたものが古墳・山岳霊地・経塚などからの出土例である。古墳出土の場合,古墳築造当初からの埋納品か否かが問題になるが,千葉県佐原市関峯崎横穴群三号横穴出土の押出一光三尊像(No.98)は玄室内の棺床面から他の遺物とともに発見されたもので,七世紀後半の築造時の副葬品と判断される唯一の例である。関東地方への仏教の普及時期を考える上で重要な資料といえよう。これ以外はすべて古墳築造時よりも後の時代に何らかの意図を持って埋納されたものと見られる。一方山岳霊地では,日光男体山山頂からの出土例が知られているが,これは聖山に対する信仰から神像や本地仏を埋納したものなので,群馬県の榛名山・赤城山南欝からの出土例も類似の作善行為と見なせるかもしれない。また,日光男体山山頂出土の男神立像(No.26・27)の形制や着衣の形式が,栃木県真岡市西岡出土の男神立像(No.21)と一致していることから,これらは同一の神を表現したものとみられるので,在地の信者による造像と埋納といった信仰の一形態を示すものと考えられる。次に,紺塚からの出土例は茨城県鹿島郡鹿島町鹿島神宮寺経塚の地蔵菩薩立像(No.4)の一伊!だけである。そもそも経塚は藤原道長による金峯山山頂への埋納以来,近畿地方を-189-

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