3.金銅仏の制作時期と制作法中心に展開しており,この例は東国では数少ない金銅仏を伴う経塚として貴重な例といえよう。さらに栃木県真岡市西郷芳賀山出土の千手観音立像(No.20)は,発見場所から人の頭ほどの大きさの自然石が5■ 6個伴出しており,さらに群馬県邑楽郡大泉町大字仙石字丘山出土の観音菩薩立像(No.71,注2)も発見場所に握り拳大の石が敷き詰められていたと云うから,何らかの目的を持ってその場所に埋納した可能性がある。このように見てくると,出土金銅仏の発見場所の多くは寺院の宗教活動の場であったり貴族の信仰上の作善行為による埋納地ということになろう。出土した金銅仏の制作時期は,白鳳期から江戸時代,さらに近代に至るまで幅広く分布しているが,なかでも平安時代の遺例数が群を抜いており,これに鎌倉・室町時代が続いている。一般に彫刻史の中で平安時代といえば,当時盛んに造像されるようになった木彫像に押され,金銅仏の空白の時代といわれるほどにその作例は少なくなるが,関東地方の出土金銅仏に限り,その数量だけをみれば,平安時代は全盛期ということになるのである。しかし,平安時代の金銅仏の制作は減少したとはいうものの,文献によると貴族の間で金・銀・金銅の小さな念持仏が盛んに制作されていたという記録が残っているから,任官のために下向した貴族たちによって小さな念持仏が関東地方にもたらされたのであろう。ところで,出土金銅仏は土中による錆や腐食,火中による溶解などの事情を割り引いても細かな仕上げをしている例が少ないので,当初から簡素にして粗削りな作りであったと思われる。したがって出土金銅仏は貴族たちが念持仏としてもたらした金銅仏をさらに地元で模作したものであったり,あるいは踏返し鋳造によって繰り返し制作されたものと推定できる。一方,関東での金銅仏制作については,関東最古の出土金銅仏の一つである東京都国分寺市武蔵国分僧寺付近出土の観音菩薩立像(No.109)が,像容から中央の作ではなく関東での制作と考えられているから,すでに白鳳期にはおこなわれていたわけである。また,鋳造法としては峨型と前後合わせ型とがあり,蟻型は鎌倉時代まで用いられ,前後合わせ型は平安時代から使用されるようになっている。蛾型の遺例の中には栃木県河内郡河内町下ツ橋字芦沼境の養善寺跡付近出土の如来立像(No.31)や,同県日光-190-
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