男体山山頂出土の菩薩立像(No.25)のように,背面に損傷があったために胎内に残された中型土が確認され,包み中型による鋳造法だと判明した例がある。かりにこの像に損傷がなければ蟻型ムクの像と見なすところであるから,他にも同様の包み中型による鋳造が行われている可能性は十分にあろう。また,前後合わせ型の鋳型は埼玉県坂戸市新堀の金井遺跡から天王立像の前面と背面の外型が出土しており,栃木県芳賀郡市貝町の多田羅遺跡からも宝冠阿弥陀如来坐像と左脇侍を含む前面部の鋳型が出土している。仏像の鋳型を伴った鋳造遺跡は現在のところ金井遺跡だけで,他の鋳造場所については明らかでない。一方,千葉県香取郡大栄町稲荷山出土の十一面観音立像また,今回調査対象となった地蔵菩薩立像8謳のうちNo.4と47,千手観音菩薩立像7船のうちNo.IOと20,16と81については,同箔の確証は得られないもののいずれもその像容は酷似しており,こうした像を量産できる工房の存在や鋳造型の継承された可能性がうかがえる。これら以外にも近い関係にあると思われる例は数点あり,いずれも出土地が互いに離れているから,鋳造場所や流通・移動方法をどのように考えるかが問題になるところであろう。この像は蓮華座に結珈践坐する定印の宝冠阿弥陀如来坐像を中尊に一茎三尊形式をとるもので,古墳や経塚からの出土例が多いため特殊な信仰の対象になっていたと推定されている(注3)。全国で17艦の遺例が確認されている中で,関東地方で5謳,なかでも埼玉県のように4艦(No.7 4 • 82 • 85 • 86)が集中しているのは他に例がなく,一方栃木県からは中尊と左脇侍が一括して型取りされた鋳型が発見されているから,このことは関東地方で宝冠阿弥陀如来坐像に対する信仰が高まり,この種の像の供給が行われていたことを示している。また,宝冠阿弥陀如来坐像に脇侍菩薩が伴出する遺例は和歌山県那智経塚出土像を除き検出されていないが,千葉県印廂郡印西町木下別所廃寺出土の菩薩立像(No.90)には台座底部から像の右に向かって蓮茎の一部が残っているのが確認でき,宝冠阿弥陀如来坐像あるいは他の一茎三尊像の脇侍菩薩であったと考えてよかろう。さらに,宝冠を戴いた如米像の例として,千葉県八千代市井戸向遺跡の住居内出土の宝冠如来坐像(No.102)は両手をそれぞれ両膝に置く印相を(No.97)については断片を含めて3艦分出土しているが,これらは同箔と見られる。4.特記すべき造像例① 宝冠阿弥陀如来坐像-191-
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