注(1) 特別展『甦る光彩ー関東の出土金銅仏』埼玉県立博物館平成5年10月15日とって蓮華座上に坐し,千葉県山武郡芝山町日向城跡出土の宝冠如来坐像(No.108)は腹前で両手を組み三重の方形座に坐し,台座底部の桓の左右に蓮茎の残欠があることからこれも一茎三尊形式をとっていたと考えられる。両像とも一連の宝冠阿弥陀如来坐像の形制とは異なるが,注目すべき遺例である。② 兜仏兜仏とは,武将が出陣する際,兜に取り付けたり,着衣に縫いつけたりする携帯用の念持仏といわれている。茨城県鹿島郡大野村の慈眼寺には兜仏と称される45謳の小さな金銅仏が伝存しており,寺伝では同寺が鹿島神宮の鬼門に当たるため武将によって奉納されたものという。これらの金銅仏は大きさから見て携帯できるものばかりであるが,特に肌身につけるという兜仏としての特徴は見出されなかった。これに対して,茨城県竜ヶ崎市八代町屋代城跡出土の薬師如来立像(No.9)には明らかに身につけるための細工が施してある。すなわち,この像は背面を省略して平板に造り,頭頂から後頭部にかけてと台座底部から背後にかけてそれぞれ穴が貫通しており,台座底部は湾曲して自立しないものであった。こうした形状から,本像は背面を何かに密着させ,頭部と台座部を縫いつける意図が見て取れる。取り付け法から見て懸仏とは考え難く,城跡からの出土という状況を考慮するといわゆる兜仏として造られたものであろう。関東地方の出土金銅仏は白鳳期以来の遺例を確認できるが,ほとんどは在地の鋳物師によって制作されたものである。出土地は各地に広がり,遺例によって巧拙の差がはっきりとあるので,鋳物師や工房は各地に点在してその規模や技術もさまざまであったと考えられる。大規模な工房では量産が可能となり,遠方へ運ばれることもあっただろうし,小規模の工房では他の工房で造られたものの写しも造られたのだろう。出土金銅仏に関する研究は緒についたばかりで,今後も遺例の発見があり,新事実が明らかになると予想される。出土金銅仏というージャンルがあるわけではなく,広<彫刻史や金銅仏全体の動向の中で研究を進めなければならないものであるが,さらに考古学や歴史学とも関わりの深い分野だけに検討課題は多いと考えている。-192-
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