鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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1972年)として指摘されてきた。3.等伯風の肖像画30代半ばまでの信春時代の作とされる成慶院本の「伝武田信玄像」や「伝名和長年像」のと同様の性格を持っていることである。つまり衣裳の多彩な文様・彩色による装飾性と,ややもすると無個性とも言える形式的な美貌である。たとえば,元和2年(1616)に亡くなった「藤堂高虎夫人像」(三重四天王寺)の場合,肉身部の顔料は剥落しているが,下描き線から顔の細部表現なめらかな楕円形の輪郭,白色か白色に近い淡い顔色,きれなかの目,小鼻や鼻腔が強調されていない長い鼻,小さな口などかれた,装飾過多ともいえる衣裳の濃やかで複雑な文様など,共通する要素が指摘できる〔図2,3〕。これらの要素はまた,「藤堂高虎夫人像」のみならず,大和文華館所蔵の「婦人像」〔図4〕など,近世初期女性肖像画に通有の性格とみなされており,「華麗な模様の衣裳」と「能面のような」顔の「典型美」という言葉で表現され(成瀬不二雄「日本の肖像画について」『特別展日本の肖像画』平成3年大和文華館),風俗画の女性像と共通する「類型美」(武田恒夫「近世初期女性肖像画に関する一考察」『大和文華』56,また,戦国期から江戸時代にかけての童子の肖像画については,夭折した子供について,親の慈愛をこめて追慕の為に制作されてきたと推論されている(影山純夫「慈愛と追慕童子肖像画について」『古美術』861988年)が,11歳で夭折した,毛利元就の甥,「毛利幸松丸像」(東京H本民芸館)にもほぼ同様に女性像との共通項が指摘でき,子供の肖像と女性の肖像の理想化において志向するものが近似することが気付かれる〔図5〕。朝鮮半島での戦傷と病で帰国し,18歳の若さで世を去った与八郎は,肩衣袴姿の武将として描かれながらも,女性の,あるいは子供の肖像画と同様の手法で制作された。そのような表現のありかたは,像主の性別のみによらない,近世初期の俗体の肖像画における理想化表現の用法のひとつ,といえるのでないだろうか。十六世紀から十七世紀初頭の肖像画群の中で,造形感覚の独自性で抜きん出ているのは,長谷川等伯(1539■1610)であるというのは衆目の一致するところであろう。(東京国立博物館),「日尭上人像」(京都本法寺),等伯を名乗ってからの「千利休がわかり,そして明るい色彩で細密に描凹凸の少ない-199-

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