鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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な輪郭と細墨線をひきかさねて陰影のある描線による柔らかな輪郭という対比がみられる〔図11,12〕。鋭角的な直垂姿の肖像の肉身部,特に顔の表現まで,必ず固く強ばっているとは限らないが,柔らかくしなった衣裳表現のものは総じて,肉身部の表現も柔らかな自然な輪郭が求められているように見える〔図13,14〕。固い直垂形式の姿の肖像画と束帯姿の肖像画とで互いの関連を感じさせる作例をあげる。先述の「宇喜多能家像」と技術的な近さを感じさせる肖像画に,「清原宣賢像」(東京国立博物館)がある〔図15〕。賛文の年紀には32年の隔たりがあり,宣賢像は束帯の強装束すがたで冠を被っているが,顔の細部を比較したとき,耳の形が似ていること,白目のくっきりした目,目の周囲や額の跛の形式化ぎみの線,唇が上下ともほぼ同じ幅で,上のくぼみがなだらかで界線に凹凸がないこと,頬から顎にかけての輪郭,眉や蹟を描く濃墨の調子など,全く無関係とは言い難いほどに共通する箇所があげられる〔図13,16〕。宣賢は儒学者として知られ,正三位まで進んでいるが,細川幽斎の母方の祖父であり,最終的には越前の朝倉氏のもとで没しており,当時の武将たちと深く関わっていた。武士の服飾の歴史が,武士の社会的身分の変化と関わっていると言われていることは既に述べたが,丸山氏によれば,「新興の武士たちにとって,衣生活の領域での選択肢は,公家社会での厳格なヒエラルヒーに割込んでいくか,あるいは従来自分たちが慣れ親しんできた服飾形式を発展させていくかの二通りしかな」<,「平氏一門は前者の道を歩み,強装束の力強い表現を推進して,公家装束そのものにいわゆる六波羅様とよばれる独自の好尚を反映させ」ていき,平氏の滅亡後,源氏は質実さを尊んで後者の道を選択し,直垂など生活に密着し実用的で機能的な衣服が多用され,その正装化・礼装化が進んだと分析されている。強装束は,地質を固く織り,のりも固くきいた下着によって衣文を直線的に張らせたもので,いかめしく武張った武士の好みに合致しただけでなく上層公家の服飾様式にも影響を与えた。しかし,着るのもたやすくはなく実用性に乏しく,公家社会においても特殊な行事のための伝統服と化した事が指摘されている。肖像画の直垂形式の表現が2種類に分けられることと,このことは関係ないのであろうか。本来気楽な服装であったはずの直垂形式が正装や礼装として扱われ,肖像画の直垂姿が正装として描かれたとき,固く強ばった形になること,つまり,実際に直線的につっぱった,ごわごわと固いものでなくとも,言ってみれば「直垂形式の強装-203-

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