鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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■東海道の旅しまいがちだが,探幽の場合,そうした先入観にとらわれずに,それらの関係について考える必要があるだろう。その考察が,探幽の作画の意味を考えるうえで重要な示唆をもたらすことが期待されるからである。そのためにもまずは,《探幽縮図》のなかからスケッチを弁別しておく必要がある。花鳥スケッチについては,すでに東京国立博物館蔵花丼スケッチの画集が刊行されており(注8),同本や京博本「鷹図巻」中の鶴の写生などは,古画模写と区別されているようである。これに対し,風景スケッチの場合は,まだ,充分な整理・検討がなされていないので,以下,整理してゆくこととしたい。探幽が,旅の途上で描いた風景スケッチとして,表1に掲げた8件の現存例がある。いずれも,携帯にふさわしい天地わずか12センチあまり(本地)の小画面であり,屏風や画冊に貼られたものも,もとは画巻であったと推定される。これらを,江戸一京都往来の際,つまり「東海道の旅」途上で描かれたと考えられるものと,それ以外のものとに分けて,述べることとする。探幽は,江戸での幕府の仕事と,京都での皇室や寺院の仕事のために,京都一江戸間の往復を生涯に10回以上くりかえした。そのことは,鳳林承章の日記『隔箕記』などから知られる。京都と江戸の往復にあたって,探幽は,多くの場合,東海道を通っただろう。旅中,各地の風景に接して写生する機会をたびたび得,景観についての記憶を徐々に深めていったにちがいない。その折の風景スケッチとみられるのが,以下の4件125図である。1.東海道地取図巻もっとも早い時期の風景スケッチ。巻初に「明暦二年,京より江戸下し時」とある。『隔箕記』によれば,探幽は明暦2年(1656),正月から5月下旬まで京都で過ごしている。同記4月23日条,鳳林が探幽に江戸下向の餞別持参とあるが,江戸下向は延期されたらしい。鳳林のもとに探幽訪問(閏4月16日条),鳳林が探幽訪問(同29日条),鳳林のため印のみの探幽画に探幽が署名(5月2日条),鳳林から探幽へ抹茶を贈(同21日条)とあり,そこで探幽についての記述が途絶えるからである。つぎに探幽の名が登場するのは,同年10月23日の条,江戸大火で探幽の屋敷炎上という記事である(こ-218-

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