鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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—ヵプチン会,オラトリオ会の精神性を通して一(注1)② フェデリコ・バロッチの図像解釈研究者:東京芸術大学大学院博士課程甲斐教行「善にして敬虔なる魂をもって,聖なる画題を描き続けた」(注2)画家とベッローリをして言わしめたフェデリコ・バロッチ(ウルビーノ1535-1612)は,「マニエラ」から対抗宗教改革,そして「バロック」へ向かう激動の時代を,自らの個性を曲げることなく踏破しえた希有の存在である。その生涯を通して彼が追い求めた,うら若く優しい女性像の微笑みや,悲劇的な受難図においてさえ魂の衝撃を柔らかく包みこむ甘美な色彩は,この画家が何よりも「心」の画家であったことの無言の証であろう。青年期のローマ滞在で,ズッカリ兄弟の知遇を得,教皇ピウス四世のカシーノのフレスコ画装飾(1561-63)を完成させた,前途洋々たる若きバロッチが,もしそのまま「永遠の都」の第一線で活躍し続けたなら,十六世紀後半のイタリア絵画史をどのように書き変えたかは,われわれの想像を絶している。実際には,ベルヴェデーレ宮殿で《モーゼ伝》を描いていた彼を襲った体調の激変が(注3),制作の中断と帰郷,しばしの画業中断を余儀無くさせ,画家は二度とローマに戻ることがなかったのである。四年の間絵筆を執ることさえできなかったバロッチは,ある日聖母に病気回復の祈願を行い,軽快の兆しが見えた頃,一枚の絵をウルビーノ近郊のクロチッキアにあったカプチン会の教会に捧げたという(注4)。ベッローリが伝える,画家の病気の真因――彼の成功を妬んだ他の画家たちによる毒殺未遂_(注5)が事実かどうかを客観的に確かめるすべはまずないとしても,バロッチが個人的な救済の願いを託したその作品に,聖母子を礼拝する福音書記者ヨハネていることはもっと注目されてよい〔図1〕。『黄金伝説』によれば,ヨハネは異教徒の王に強いられた毒杯を飲んでも無事であったばかりか,毒によって殺された人々をも蘇らせたという(注6)。現在ウルビーノのマルケ国立美術館にあるこの絵の中で,聖人は合掌の姿勢で聖母子の前に膝まづき,画家の病気からの回復を祈念している。そして聖母は優しい慈しみの態度で幼児イエスを支え,イエスは微笑を浮かべつつ手をさし延べ,一本のピンクの薔薇(注7)を聖人に示している。もしそれが聖人そして画家自身の熱烈な祈りに対する答えであるなら,それはまさに,病後のバロッチが毒に対する守護聖人-12-が描かれ

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