のとき,それまでの縮図の多くが焼失したとみられている)。探幽は,5月下旬以降,さらに本図巻中の「十六日」「+七日」という書き込み(表2参照)から,おそらく6月上旬に,京都から江戸に向けて出発したのだろう。本図巻は,この折のものとみなすことができる。描写内容は,別表2にしめしたような東海道沿いの各地。全長は9mをこえる。巻頭,佐屋(現愛知県津島市)の河岸から谷津山(現静岡市内)まで,探幽が歩いた道を順を追ってたどることができる。略筆による描写は,まだ心覚えの段階にすぎないが,探幽が,写生そのものをたのしんでいる姿をよくつたえる。さまざまな景観や風物が,軽快なタッチのすばやい墨描で写しとられているし,道程ごとに均ー・機械的に土地土地を記録するのではなく,気に入った場所はくりかえし何度も描いているからである。とくに,宇津谷(現静岡市宇津ノ谷)は7図にわたり,分け入る山道を描き繰り返したうえ,名物の十団子(とおだんご,現存)までスケッチしている。『伊勢物語』ゆかりの山深き地で「蔦の細道」の異名を持つ宇津山の道を,みずから踏みしめているという探幽の実感が,ここからはったわってくる。視界のひらけない山道のつづいた後の図が,パノラマ状にひろがる一望である。これは山上の徳願寺(現静岡市向敷地)から眼下にひろがる駿府城下(現静岡市街)の景観で,図中留書の久能・八幡・金山(妙音寺の山号)・竜爪か岳・天狗岳・建穂新田などの地名は,地理的に符合する。最奥の孤峰が,探幽の愛した富士山である。探幽の視界は,閉から開へと一転している。巧まざるこの構成が,探幽の心の昂ぶりを率直に伝えていて,実に興味深い。図巻は谷津山(現静岡市内の小高い丘)で終わるが,このあとに富士山や三保松原などのスケッチが続いていたと想像され,巻頭前の京都〜佐屋間同様,失われているのが惜しまれる。2.近江写生図巻大東急記念文庫蔵大東急記念文庫蔵の風景写生図巻は,近江・箱根・東海道の三巻から成る。うち「近江」と「東海道」が東海道の旅の所産である。これらは,すばやく伸びやかな墨線によって,それぞれの土地がいきいきと写し出されており,上述の明暦2年(1656)本と比べると,寛文年間における探幽の風景スケッチの進歩ぶりをしめしている。ことに近江の巻は,すばらしい。全長17m。「寛文四十一月十二日」の年記があり,-219-
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