⑰ 藤原信実を中心とする鎌倉時代肖像画の研究研究者:東京大学大学院人文社会系研究科助手伊藤大輔近年,米倉迪夫氏は,平安末から鎌倉時代の肖像画制作におけるタブー意識の問題について,肖像画の霊性に対する禁忌意識は全くなかったわけではなかろうが,時にそれはあくまで語りの方便として表明されるものであり,実際の肖像画制作の際にはそれほど足枷にはならなかったであろうと指摘されている(注1)。これについては,筆者も同意見であるが,もしこれを認めるならば,似絵がこの時期に登場する意味についても改めて検討し直されなければならない。即ち,これまでは,上層貴族の肖像制作に対する禁忌意識からの解放ということが,似絵登場の大きな理由とされてきたが(注2)'もしも,もとより禁忌意識が少ないならば,それ以上の何らかの要因が似絵の登場に存在したことも考えられるからである。本稿では,藤原隆信・信実系の似絵の実作品の分析を通して,似絵という表現形式の特質を考察し,ひいては平安末期にこの似絵が登場する理由についても検討してみ藤原信実の画業については既に米倉迪夫氏により論考が発表されているので,詳細はそれによることとし,今は,氏が信実の画業全般を見渡されて結論された,彼の画業の特色についての御意見を引用させていただくこととしたい。郎ち,氏は「信実の絵事を顧みて気付かれることは,信実の絵事が概ね院・天皇などにむけられており,その制作環境はかなり限られている。」とされ,「信実の絵事は,後鳥羽院や後堀河院などの好みに負うところが少なくなかったのではないかと推測される。」と述べられる(注3)。この米倉氏の指摘は,信実のみならず似絵全般の性格を考える上でも重要である。つまり,享受者について考えると,似絵というのは割合上層の文化的にも政治的にもエリートであった貴族階級が享受したものであると予想されるのである。一言この点に触れた上で実際の作品の検討に移りたい。先ず取り上げたいのは「随身庭騎絵巻」(大倉集古館)である。この絵巻は都合九人の随身を描いているが,冒頭よりの三名が平安後期の仁平から治承頃(―-五ー〜一一八0)に活躍した随身であり,後の六人は,鎌倉時代宝治元年(ーニ四七)の後嵯紆陪院の随身の姿である。たい。-229-
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