な,立体を平面の中につかもうとする努力の中でこのようなスケッチ風の描写が確立したことを十分に推測させるものである。それとともに,この実作例の存在によって,こうしたスケッチ風の未整理でもやもやと不安定な顔貌表現が直接生かされる場合が中国にも存在したことが分かり,先に見た海老根氏の似絵の描法に対する論がより説得力を持つことになったと言えよう。そしてまた,こうしたスケッチ風の肖像表現が,文人達による白描的な表現の中に登場していることも興味深い。白描画全体は必ずしも文人的な環境の範囲内に留まるものではないが,特に北宋の李公麟が白描画を復興して以来,白描の繊細で洗練された画風は文人達により強く愛好され,その制作と鑑賞の大きな部分を文人達の世界が支えていたと考えられる。すでに指摘されるように,「楊竹西像」も文人の肖像を中心に,文人画家が合作し,また「文人たちが詩を作り,序と後践をそえた完全な詩画巻の体裁をとっ」たものであり(注6)'文人的環境の中での制作と享受が行われたものであることは明らかである。このような白描肖像画の制作が,おそらく李公麟の時代にまでさかのぼるであろうことは,一つの予想としては容易に想像できるところである。李公麟が肖像を描いたことは文献からも知られるところであるが,信頼できる実作例は残されていない。「五馬図巻」の園人の顔などは,「楊竹西像」の人物像とあるいは近い性質を備えているのではないかとも思われるが,「五馬図巻」の人物の方は線がすっきりと整理され,より洗練された印象を与える。従って王繹の「楊竹西像」一例をもって宋元の白描肖像画全般を語ることは出来ないのであるが,或いは,白描画が流行し,制作者と享受者の底辺を広げるにつれ,李公麟の整理された線描による人物表現の中に,職業画家達が肖像の下絵制作の際に用いていた「九朽」的な画法が白描という場を得て李公麟ほど完璧に整理洗練されないまま登場するようになったのではないだろうか。また,完全に整理しない方が画像に初発的な力強さと対看写照時の目と手の動きを生に伝えるリアリティーヘの説得力というものが生じる効果も生まれ,白描画における完璧な描線を得ることの困難さとともに,次第に王繹の例に見られるような描法が一般化していったのではないだろうか。そして,平安末期に登場する「似絵」は,この時期の入宋貿易の拡大による人的,物的交流が発展する中で,平安鎌倉の貴族達の持っていた中国風の文人趣味への質的-233-
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