理解と宋文物の享受の進展を背景として,先に述べたような宋の白描肖像画に一般化しつつあったスケッチ的な画風を受容していった結果登場したのではないだろうか。中国白描肖像画のスケッチ的な画風を,日本の伝統的な細線重ね描き的な手法の中に取り込んで行く中で成立していったのではないだろうか。『源氏物語絵巻』などに典型的に表れる細線重ね描きによる顔貌表現は,特に貴族の顔貌を描くために用いられ,身分の低いものには用いられなかったことは既によく知られている。こうした貴族的な顔貌表現が,宋の文人風の白描肖像画の描写と意味付けの刺激の下に変容することによって,似絵という新たな形式が成立したのではないか。似絵作品は信実より後の為信や豪信の時代になると着色の作品が多くなるが,それ以前の信実が関わって似絵描法が確立して行く過程の作品には,白描が比較的多く見られるのもこうした事情を反映するのではないだろうか。もちろん直接こうした事情を示唆する文献的証拠は現在筆者は提示し得ないので,あくまで仮説の域を出ないのであるが,こうした仮説に有利に働く状況証拠はいくつか挙げることが出来るように思われる。まず,当時の入宋交流の主幹を支えた入宋僧の活動を追うと中国の文人達と詩文の贈答など,文人的な作法による交流を行っているのが分かる。やや逆説的な例になるが,成尋の例をみてみよう(注7)。『参天台五台山記』煕寧五年(-0七二)六月八日条八日/(割注)丙辰/…未時当寺老宿如日来謁。字曰文章。与詩ー紙。…(中略)…如日和尚年七十二。常作詩詠為一生事。云々。予示云。祖師智證大師住唐六年間。自他詩集十二巻。還帰大国常悔作詩。因之小僧於本国啓白本尊起請不作詩不献和。為佑。天台山国清寺に滞在していた成尋は,この日,寺の老宿である如日の訪問をうけ,詩を贈られるが,祖師の智證大師を引き合いに出して,詩の応答を拒絶している。その理由付けも,祖師の作詩を後悔している様から,自分は,本尊に詩の唱和をしないことを起請しているという相手に有無を言わせない強硬なものであり,それゆえかえ-234-
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