って,こうした詩の応答が当時の僧同士の交流には常識的な儀礼であったことが窺われるのである。戒覚の場合は,詩文の制作を通して中国の文人達と積極的に交流しており,これが当時の常識的な社交辞令であったのだろう。また,詩文による交流というだけでなく,栄西のものとも俊初のものとも言われる「送海東上人帰国図」のような,文人の相互交流の環境の中で生まれる送別図といったものまで,日本には持ち帰られている。この作品には,朱煮門人の鍾唐傑と賓従周(一一三五〜―-九六)の二名が賛をしているが,このうち賓従周の生没年より,その制作年代は十二世紀後半と推定される。水墨的技法が用いられ,人物等に淡彩も見られるが,水墨の面的な描写は十分にこなれず,樹木や波岸の生硬な筆致を代表に,人物,船,波等画面の全般にわたって線的な描写の方が目立ち,どこか白描風の雰囲気も残す。白描的雰囲気を残し,水墨技のこなれない朴訥で古拙な画風は,文人画の格法として敢えてねらったものかも知れないとも思わせる。藤末鎌初期に白描の肖像画が日本に持ち込まれたことを示す実作品や文献的証拠は今のところ見出し得ないでいるが,この「送海東上人帰国図」の例を考えれば,そうした肖像作品が日本に渡っていた可能性も皆無とは言えないであろう。このような環境にあって,信実の方も画家として宋画を学んでいた可能性をうかがわせる形跡もある。その第ーが『東巖安禅師行実』に記される悟空敬念の頂相である。『東厳安禅師行実』文永三年の条(『続群書類従』九)復画悟空和尚頂相,請自賛,和尚引筆賛,其語曰…(中略)…文永三年丙寅六月晦日.福田庵主悟空/(割注)影則法性寺信実入道画之。賛則鷹司近衛北方摂政兼平清書之。/この記事だけでは,この悟空敬念の画像が,禅僧の肖像であったので通例に従って頂相という言い方をしただけで,特に宋風の様式を意図的にねらったものではなく,信実得意の似絵そのものであったという可能性ももちろん考えられるが,一応,宋画学習の可能性も想定できる記述ではある。-235-
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