また,東京国立博物館には藤原信実筆の伝称をもつ「白衣観音像」が蔵されている。これは,高山寺印の白衣観音に近い白描図像風のもので,高山寺のものよりも一層和様化が進んでいるものである。この伝信実の「白衣観音像」が本当に信実の筆になるものかどうか今それを確実に実証できる証拠は何もなく,信実筆の伝称がいつどのような事情で付せられたのかも全く分からないけれども,こうした作品に信実の伝称がつけられた背景には,信実と宋画を結びつける見方がどこかに存在していた可能性を窺わせるとともに,さらには,単に宋画というに留まらない,「白衣観音像」という文人趣味的な白描作品と信実が結びつけられる発想が存在したことまで認めうるかも知れない(注8)。そうしたことに関連して興味を引かれるのが,「似絵詞」という史料である。これは既に多くの先学により紹介されているものであるので詳細はそれに譲るが,その概要について改めてここで検討してみたい(注9)。この「似絵詞」は,東洋文庫所蔵の広橋家文書の「題未詳」と外題にある一軸に含まれる。「似絵詞」は,「似絵」,「詩」,「和歌」,「能書」,「音楽」,「神楽」,「競馬」,「説法」の八芸に各々通じた人々を称揚した文章をまとめたものであり,「似絵」に記された内容からすれば,それに信実の描いた各人物の肖像が付けられることになっていたらしい。この「似絵詞」の企画者は,第一紙の部分に「似絵詞後堀河院仰」とあるように,後堀河院であり,技芸に秀でたものとして選ばれた人々も,当時現存の人々であったことが判明している。そして,「似絵」はともかく,この「似絵詞」の主題に取り上げられた多くが,宮廷に近い位置にある趣味的な技芸に通じた人々であることは,この図巻が,おそらく後堀河院を中心にした貴族の狭いサークルの中で,楽しむために企画されたものであったことを推測させる(注10)。当時の天皇を中心とする貴族達は,中国風の文人的なサークル活動を楽しんでいたことがこの例から推定できる。「似絵詞」が,和文ではなく,漢文で記されたのも中国風を意識したものではないだろうか。信実の似絵も,そうした貴族達の中国文人風のサークル活動の中に受容されている。それは,信実の似絵が,元来中国文人達がその交流の際に用いた白描肖像画のイメージを背負っているからこそ,特に好んで受け入れられたと考えられるのではないだろうか。以上のように,平安末期からはじまる似絵は,宋代の白描肖像画の表現を日本の細--236-
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