鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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注(1) 米倉迪夫「鎌倉時代の絵画~(『日本美術全集(2) 赤松俊秀「鎌倉文化」(『岩波講座日本歴史5中世1』,岩波書店,一九六七年)。(3) 米倉迪夫「藤原信実考」(『美術研究』三0五,一九七七年)。(5) 陶宗儀『畷耕録』巻十一(『津逮秘書』本)。(6) 井出誠之輔「萬歳寺の見心来復像」(『美術史』一一九,一九八一年)。(7) 平林文雄『参天台五台山記校本並に研究』(風間書房,一九七八年)による。(8) 信実が高山寺において剃髪入道したことを示唆する「高山寺過去帳」の存在が既(9) 多賀宗隼「似絵の貴重資料ー広橋家所蔵断簡と信実自画像について一」(『美術史線重ね描き的な描法の中に応用することで成立し,また,中国における文人の絵画制作という視角から先ず享受されていったのではないかということを論じてきた。もちろんこれは証拠の提示は全く不十分であり,仮説といいうるかもおぼつかない論ではある。しかし,本章の冒頭でも触れたように,少なくとも信実の似絵は比較的上層の貴族階級を享受の対象としていたようであり,彼らが自己自身を描写する手段として,文人風のイメージに裏付けされた描法を選択することが好まれたということはあり得るのではないだろうか。「俊窃律師像」をはじめとする僧侶の肖像がそれなりに高い技術で端整に描かれている中で,貴族達は何故,未整理で不安定な感のある紙絵の小像に自己自身を写す場を求めたのであろうか。いまだ不十分ではあるが,ここで述べた論がこうした疑問に対する一つの解答になりはしないであろうかと考えている次第である。(4) 前掲(注1)『日本美術全集9縁起絵と似絵』第31図解説。に紹介されており,信実が高山寺と何らかの関係を持っていた可能性も考えられる。高山寺には当時,宋画が輸入されており,信実がもし宋画を学んでいたとすれば,その学習の場の一つとして高山寺なども利用されたかも知れない。近藤喜博「藤原信実に関する仮説一高山寺の場合ー」(『美術史』ニー,一九五六年)。学』八四,一九四三年)。森暢「信実に関する二,三の問題」(『国華』七五四,一九五五年)。9 縁起絵と似絵』,講談社,一九九三年)。-237-

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