の示す鋸は,彼らの殉教の道具である。『黄金伝説』によれば,異教の地で布教活動を続けていた二人の聖人は,その使命が罪人を罰することではなく救うことにあると繰り返し言明し,異教徒の刑死よりむしろ自らの殉教死を選んだという(注13)。処罰よりも救済をめぎす大いなる愛が二人の殉教の意味であるとするなら,聖ユダの燃えるような眼差しと,聖シモンの,イエスを見つめつつ,二人の祈疇者をとりなす身振りにこめられたカリタスは,ここでもイエスの捧げ持つ薔薇によって収倣されると言わねばならない。そして殉教への熱望がカリタスに基づくことは,聖フランチェスコその人の伝記で語られている通りである(注14)。このカリタスの薔薇と,聖人たちのとりなしは,これに続く,フォッソンブローネのカプチン会のための作品にも見られる。今日では失われたこの作品の構想を示す素描では〔図4〕,天空の高みへと昇った聖母の抱く幼児イエスが,その愛の象徴である薔薇を捧げもち,その下方に,洗礼者ヨハネと聖フランチェスコがそれぞれの方法でこのカリタスのまねびを目指している。ヨハネは原罪の贖い主キリストを預言する言葉によって人々を誘いつつ,イエスを指差し,真の救い主の姿を示している。「見よ,世の罪を除きたもう主の子羊」(注15)。一方フランチェスコは,祈疇を通じて聖なる観想に沈みつつ,右手に十字架を握りしめる。この聖人か伝統的に手にする金の十字架は,当時最も広く読まれたフランチェスコ伝のひとつ,「小さき花』(フィオレッティ)に由米している(注16)。フランチェスコが観想と布教の狭間で疑念に捉われたとき,彼の弟子たちは夢の中で,聖人の口から金の十字架が現れるのを見る。それは観想によって己れを救うだけでなく,布教によって他の人々をも救済せよという神の意志であった。そしてより多くの者を救おうとするフランチェスコの愛は,民衆に救済への道を指し示すヨハネの愛とひとつになって,この作品のメッセージを形作るのである。カリタスの薔薇と並んでバロッチが愛好したモチーフは,幼子を聖なる場面の観想へと誘う女性の姿で表される。1570年代中頃にウルビーノのサン・フランチェスコ教会のために描かれた《無原罪の御宿り》,1575-79年にアレッツォの「慈悲の聖母同信会」のために描かれた《マドンナ・デル・ポポロ》,1580-83年にラヴェンナのベネディクト会士たちのために描かれた《聖ウィタリスの殉教》の三つの作品に繰り返し現れるこのテーマが,1573年に出版されたカプチン会説教者マッティア・ダ・サローの著作『心による祈りの手引き』に基づいていることは,これまで指摘されたことがな-14-
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