* * * 容」のいわば導入に当たり,研究のねらいとしては一貫したものであることを付言しておく。明治31(1898)年,いわゆる東京美術学校騒動を機に発足した日本美術院の第1回絵画共進会(日本絵画協会との連合展)に,同院の主幹であった橋本雅邦は《梅・竹》と題する二曲一双の金屏風〔図1〕を出品した。現在埼玉県立近代美術館に収蔵されるこの画は,総金箔地で右隻に白梅,左隻に竹を巧みな筆捌きによって描き出し,いかにも古法に則った簡潔平明な構成の作といえる。そこには狩野派の正系を継ぎ,老境を迎えた,まさに最後の絵師としての風格を充分に漂わせているのだが,逆の見方をすれば,西洋絵画を範として奥行のある空間把握に腐心した明治20年代の雅邦の気概といったものは,もはや感じられない。橋本雅邦,あるいは狩野芳崖という,明治前半期を代表する日本画家が近代日本画史上に果たした意義と照らし合わせたとき,《梅・竹》の,とくに金箔地というマチェールは彼らには似つかわしくないように思われる。芳崖・雅邦がめざした日本画の近代化とは,とりもなおさず日本画の西洋絵画化に他ならなかった。具体的には明治10年代末から20年代にかけての彼らの山水画に顕著なように,二次元の画面に三次元のイリュージョンを構築することが課題であり(注3)'したがって金箔のような,それ自体金という物質性を主張するあまり,新たなイリュージョンを構成する媒体としては不向きな素材は排除される傾向にあった。たとえ金が使用される場合でも,芳崖の《悲母観音》(1888年作)のように金砂子や金泥を宗教的モチーフの荘厳として象徴的に用いるか,または雅邦の《白雲紅樹》(1890年作)のように画面のリアリティを害なわない範囲で控え目に金泥引きを行ない,陽をうけて輝く霞をきわめて写実的に表現するといった具合である。もちろん《梅・竹》も仔細にみれば,たとえば両隻にうっすらと群青の霞をほどこし,竹幹には丸みをもたせるなど,ある程度イリュージョンの表出に努めているものの,かえってその微妙な描写ゆえに燦然たる金地の存在に圧倒され,折角のイリュージョンが萎縮してしまったといわざるを得ない。雅邦は《梅・竹》において,なぜ総金地という,それまでの志向と逆行するような表現を選んだのだろうか。この作が出品されたのが日本美術院の開設直後ということを考えれば,金屏風および竹梅というモチーフに慶賀としての意味を読み取るのがまず穏当な解釈というべきだろう。あるいは院運営の資金繰りのため,見栄えのする売-240-
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