鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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り絵として描いたとみられなくもない(注4)。ただしここで注目したいのは,雅邦の《梅・竹》の後,弟子の下村観山・菱田春草も以下の金屏風を相次いで発表していることである。*下村観山《元禄美人》(二曲一双)明治32(1899)年日本美術院横浜絵画共進会出品〔図2〕*菱田春草《六歌仙》(二曲一双)明治32(1899)年日本美術院横浜絵画共進会出品〔図3〕*下村観山《伊曳古話》(六曲一双)明治34(1901)年第11回日本絵画協会・第6回日本美術院連合絵画共進会出品〔図4〕観山も春草もそれまでは,例えば《継信最期》や《水鏡》(いずれも1897年作)のような西洋絵画の写実を芋んだ人物画を手がけていたのだが,現存が確認される《元禄美人》《六歌仙》は総金地に濃彩で描かれ,くすんだ色調は払拭されている。つまり師の雅邦と同様,イリュージョンの後退現象がみられるのであり,したがってここでは問題を雅邦の作品にとどめず,さらに敷術して考える必要があるのではないだろうか。上記の諸作品がいずれも屏風という大画面の形式である点に留意するなら,明治20年代末〜30年代初頭はまさしく日本画巨大化の時期であったことが想起されよう。会則をたどってみても,明治24(1891)年に発足した日本青年絵画協会の共進会では,出品画のサイズが竪六尺・幅三尺までだった(注5)のに対し,同協会が日本絵画協会と名を改めて開催した第1回絵画共進会(1896年)では竪は七尺以内,幅は尺八なら金30銭二尺五寸で40銭,三尺で60銭,五尺で1円50銭と費用に応じて選択の幅が広がっている(注6)。現に日本絵画協会絵画共進会に出品された日本画には,下村観山の《仏誕図》(1896年作202. 3 X 143. 0cm)や《継信最期》(227.2 x 350. 0cm)といった巨幅が目立って多くなるのである。こうした画面の巨大化は,そのほとんどが歴史画だったことを勘案すれば,西洋のサロンの出品画を形式・内容の両面で踏襲した結果とみることかできる。そもそも展覧会(絵画共進会)という場自体舶来のものであり,その場に持ち込まれる以上,日本画もまずは西洋画の規格に従わねばならなかった。明治15(1882)年と17年の内国絵画共進会で出品画の形状が額面もしくは枠張りに限定された(注7)のは,草創期の日本画展覧会における強引なまでの規格化といえる。そしてその後の絵画共進会でも,出品後は掛幅等に改装されるにせよ基本的には枠張りの出品が主流を占めたよう-241-

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