鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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である(注8)。ところがその一方で,いわば床の間芸術から会場芸術への移行ともいうべき日本画の大型化は,結果的に屏風というきわめて伝統的な形式をも展覧会場に呼び込むこととなる。第1回日本美術院絵画共進会には橋本雅邦《梅・竹》の他,西郷孤月の《群鴻》,下村観山の《春暁・秋暮》,竹内栖鳳の《春雨・秋暮》,菱田春草の《寒林》といった屏風画が出品された。もっとも後年の展示方法からして,それらの屏風はW字型に折り曲げてではなく,まっすぐに伸張させた状態で壁面に固定されたと思われ,その点屏風としてよりもむしろ横長のタブローと見なされたふしがある。また全体からすれば明治30年代の展覧会における屏風画の進出は未だ微々たるものであったが,やがてこうした改革と伝統の奇妙な交錯は明治40年以降の文展で顕著になるのであり,その前触れをここで確認しておく必要があろう。つまりは形式のみにとどまらず,その表現内容にも関わる問題なのである。それは具体的には,前記のような屏風という形式が金地表現を伴うケースに象徴されよう。“金屏風”という熟語が示すように屏風と金地は親密な関係にある。屏風が展覧会に登場するのであれば,金地もまた展覧会場に光彩を放つようになるのはごく自然の成り行きだった。そうなると展覧会はつまるところ純粋美術継承の場たり得ず,あたかもきらびやかに装飾された大広間の様相を呈する,という一種のジレンマが生じる。とすれば一見何の変哲もない橋本雅邦の金地屏風《梅・竹》は,その後の展覧会における日本画の方向性を多分に牢んでいたと位置付けられるのではないだろうか。以上を整理すれば,日本画の会場芸術化→日本画の大型化→屏風,ひいては金地表現の展覧会への登場,ということになる。しかしながらこの図式では,日本画装飾化の御膳立てこそ整ったものの,その直接の動因についてはまだ充分に説明しきれていないかもしれない。そこで視野を洋画に広げるなら,新派の領袖黒田清輝の《智・感・情》(図5〕が雅邦の《梅・竹》の前年に発表されているという事実が,ひとつの示唆を与えてくれるように思う。明治30(1897)年の白馬会第2回展に出品された黒田清輝の《智.感・情》をめぐっては既に多くの論考がなされているが,背景の金地使用についても,日本女性の裸婦像が卑俗なレベルでの批評の対象となるのを避けるため,あるいは仏画としての荘厳のためといった見解が提出されている(注9)。たしかに黒田はそうした金のもつ象徴性に期待をかけたであろうが,その一方で「ひらったい感じを現はさうとしたのだ-242-

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