Japonaise”には風土と芸術が不可分であることが説かれ,明朗な日本の風土をふまえが,思ったほどうまくゆかなかった」(注10)という彼の片言に注目するなら,「ひらったい感じ」,つまり平而性表出のための純粋に造形的な手段として金地を用いたとも考えられよう。黒田作品の平面性については,すでに橋富博喜氏がピュヴィス・ド・シャヴァンヌとの関係で論じているが(注11),早くも《智.感・情》発表時に,「単純なる線を以て描けるは,ピュビス,ド,シャバンヌが近年頻りに画き出だせる所,氏も今や此壁画的即ち装飾画に指を染めて古代希騰の美はしき辺りを偲ぶにやあらん」(注12)という評が見出だせる。また《智.感・情》にはしばしば“パノー・デコラチフ”という語か冠せられたが(注13),これは1879年のサロンにシャヴァンヌが出品した《海辺の娘たち》の断り書きに“panneaudecoratif"とあったことを想起させる。いずれも特定の室内装飾として描かれたのではない展覧会出品画ながら,表現内容としては平面的で“デコラチフ”な絵画であるという意味に解釈されよう。明治35(1902)年の白馬会第7回展に出品された藤島武二の《天平の面影》〔図6〕も発表時に“パンノー・デコラチーフ”と銘打たれ,明治40年以降の文展会場には“装飾画”と呼称される作が幅を効かすことを考えれば,このタームの移入は重要な意義を帯びてくる。もっとも黒田が平面性表出のため特に金という素材を選ぶに際し,日本の伝統的表現を念頭に置いていたことはほぼ間違いない。《智・感・情》はモチーフの裸婦を除いた一切の部分を金で単ーに塗り潰した,いわば総金地であり,この表現は琳派の障屏画等によくみられるところである。くわえて明治30年5月発行の雑誌TheFar East (『国民之友英文之部』第2巻第5冊)に黒田がフランス語で寄せた一文“LaPeinture て最後は「レンブラントではなく,光琳になろうではないか!」と,尾形光琳を引き合いに出して論を締め括っているのである。ただし同文を紹介した高階絵里加氏も指摘するように,《智・感・情》が1900年のパリ万国博覧会出品を貌んだ作であれば,黒田は東京美術学校西洋画科の指導者という立場上,珍奇な異国趣味として片付けられてしまう画面は避けなければならなかった(注14)。金地についても単に日本的な演出に終わらないだけの目算があったからこそ用いた筈で,例えばシャヴァンヌの描く壁画にしばしば金色に塗られた空があるのを知っていたのかもしれない(注15)。確実なところでは,師のラファエル・コランが描いた金地の俳優の肖像画について黒田は言及しており,その装飾的感覚を評価してい--243-
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