* * * る(注16)。滞仏中の明治22(1889)年に制作された黒田の金地の自画像(鹿児島市立美術館蔵)も,或いはそのあたりに示唆を受けた作ではないだろうか。こうしてみると純日本的な表現として我々の目に映る金地も,実は西洋絵画との関わりにおいて論じられるべきものであることが判ってくる(注17)。橋本雅邦の《梅・竹》についても,《智・感・情》との短絡的な影響関係の断定は控えたいが,近年黒田と雅邦や岡倉天心ら日本美術院派の共通性および繋がりが指摘されつつあることは注目されてよい(注18)。また先に触れた藤島武二の《天平の面影》も,背景に金地を用いた“パンノー・デコラチーフ”である点を考え併せれば,明治30年代前半において洋画・日本画のいわゆる新派系の画家が各々金地表現を試みたという事実が浮かび上がってくる。このことはけっして当時の画壇の大勢を占める現象でもなければ,朦朧体のようにセンセーショナルな表現でもなかったが,しかし西洋美術の動向を受けて“デコラチフ”な絵画が次第に展覧会芸術を侵食していく第一波として看過し得ないものと考えられるのである。ところで明治中期の金地表現をめぐってはもう一人の洋画家,川村清雄に触れておかねばならないだろう。ヨーロッパヘ洋画修得のため留学しながら,当地の日本美術熱に感化された川村清雄は帰国後油彩によって日本の伝統的表現を試みるようになる。勝海舟の依頼で明治16(1883)年以降に制作された一連の徳川家将軍肖像画にみられる金地表現や,《筒井筒屏風》(福富太郎コレクション蔵)のような銀地屏風はその端的な例である。その川村清雄が初めて個展を開いたのが明治32(1899)年2月,谷中の日本美術院に於いてであった。この時期の川村は橋本雅邦や下村観山ら日本美術院の日本画家と交遊があり,洋画家でありながら美術院で展覧会を開いたのもその縁であろう。当時の展評を見るかぎり,そこでは金地の油絵が出品された形跡はない。しかし鏡面の如き黒漆板や木地をあらわにした神代杉に花鳥を描いたものが数多展示され,「似非光琳的装飾画」などと評されている(注19)。そしてこれらの諸作も,描かれたモチーフとは無縁な支持体(素地)の質感をそのまま画中に取り込んでいるという点では金地表現と相通ずるところがある。蓋し日本美術院の画家が,いわゆるジャポニスムを含めた装飾性の復興という西洋美術の動向を窺い知ることができたとすれば,彼らにとって川村清雄は黒田清輝以上に身近な西洋への“窓”だったのではないだろうか。-244-
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