先述のように下村観山の金地屏風《伊斐古話》が発表されたのは明治34(1901)年,日本美術院の第6回絵画共進会(日本絵画協会との連合展)の時である。現在は写真図版でしか見ることのできないこの作品〔図4〕について,岡倉天心は次のような談話を残した。「古画復興に傾くことは無意味な純粋主義,退屈な古典主義復興に傾くことでしかありません。しかし観山のような若い画家は,大いに色彩を楽しみ,画題もイソップ物語のような新しいものを採り入れることのできる幅の広い創作基盤を持ちーーそれがこの装飾的金屏風の制作にも大いに役立っているわけですが—同時にまた十七世紀装飾の巨匠であった宗達,光琳の抱いた理想をあくまでも守って行こうとする。われわれはここに画家たるものの在り方を見るわけです。」(注20)このような装飾的(decorative)表現への信頼は,天心の明治20年代の論説,たとえば1893年のシカゴ万国博覧会に向けて出品画が装飾品視されぬよう訴えた明治25(1892) 年の講演(注21)には,けっして見出だし得ないものである。この,明治美術の司令塔が残した言論上の転向の跡を詳細に検証するのは今後の課題のひとつとなったが,とりあえず本稿では金地表現を指標として,明治30年代前半の絵画における装飾性の復権を概括することができたように思う。また上に挙げた黒田清輝や岡倉天心の言説の中には尾形光琳,あるいは俵屋宗達の名が認められ,当初の課題である琳派の受容の研究に向けても,これらは布石としての意味をもつと思われる。明治38(1905)年,欧米より帰国したばかりの横山大観・菱田春草が小冊子『絵画について』で「空前にして殆ど絶後なる特異の光彩を放てるものは実に光琳の色的印象派に在り」と記し,尾形光琳を指針としたことはよく知られているが,これに先立って明治36年には田島志ーの編集による『光琳派画集』(全5冊)の刊行が開始され,翌年には三井呉服店で光琳遺品展覧会が行なわれるなど,この時期に尾形光琳に対する関心が高まりをみせている。その主な誘因としては,①ルイ・ゴンスの『日本の芸術』(L'artjaponais 1883年刊行)に代表される欧米の光琳評価の流入,②三井(三越)呉服店の文化助成,の二点が考えられよう。そしてこのような蓄積の上に,下村観山の《木の間の秋》,菱田春草の《落葉》《黒き猫》といった明治40年代の“装飾画”が生まれたのではないか,と仮定したい。以上,現時点で琳派の受容については未だラフスケッチの段階であるが,今後も一層iの研究・調査を継続する所存である。-245-
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