注(3) 佐藤道信「水墨の変容(承前)」(『美術研究』345号1989年11月)(4) 《梅・竹》は200両(円)という破格の売値がつけられて展示されていたことが当(5) 「青年絵画共進会規則」(『絵画叢誌』第65巻1892年8月)(6) 「日本絵画協会共進会規則」(『絵画叢誌』第115巻1896年8月)(7) 「第一回内国絵画共進会規則」(『法令全書』原書房1976年)(8) Josephine M. Hyde "The Autumn Exhibition of The Nippon Bijitsu-In The Japan Fine Arts Academy" The Studio, Vol. 25, No.108, 1902. 3, Lon-don 年2月)年9月)(1) たとえば下村観山《木の間の秋》,菱田春草《落葉》《黒き猫》,今村紫紅《護花鈴》,小杉未醒《水郷》,長原孝太郎《残雪》など。(2) 金地と障屏画の親和は視覚的効果の他に,箔押しに膠を多用するため,基本的に軸装・巻子装といった巻き取りを要する作品には不向きであるという技術的な制約にもよると思われる。時の評(『美術評論』第18号1899年3月)からうかがえる。なお内国勧業博覧会に関しては,例えば第4回博覧会で岩崎蒲之助の援助により多数の屏風絵が美術館に出品されたように形式の自由が認められていた。これは絵画に一本化された展覧会ではなく,まさに百科万般にわたる博覧会の性格によると思われるが,しかしながら1900年パリ万博のような海外の博覧会では“美術”として出品する限り額装が義務づけられていた。(9)植野健造「思想表現としての絵画黒田清輝作《智・感・情》」(『石橋財団ブリヂストン美術館・石橋美術館館報』第42号1994年10月),高階絵里加「黒田清輝の岡倉天心像《智・感・情》の主題と成立をめぐって」(『美術史』第139冊1996 (10)和田英作「製作の得意時代黒田先生を追懐して」(『中央美術』10巻9号1924 (11) 橋富博喜「黒田清輝作《昔語り》と《智.感・情》その平面性について」(『デアルテ』第1号1985年3月)(12) 芳陵生「白馬会展覧会所見(二)」(『毎日新聞』1897年11月18日)(13)和田英作「五年前と今日」(『精華』1巻2号1903年10月),石井柏亭「黒田清-246-
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