鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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3幕の書割は,岡田三郎助•藤島武二の発案により金色の空に輝くパリ大学ソル(19) 芳陵「谷中の油絵展覧会(河村清雄氏作品)」(『毎日新聞』1899年3月8日)輝」(『中央美術』10巻9号1924年9月)(14) (注9)高階氏論文(15) 明治36(1903)年に東京音楽学校奏楽堂で上演された歌劇「オルフォイス」の第ボンヌのシャヴァンヌの壁画に依ったといい(石倉小三郎「グルックの歌劇オルフォイス日本初演の想出」『シイフォニー』1949年5月),遅くともこの時点でシャヴァンヌの金地壁画が日本の洋画家に知られていたことが判る。(16) 黒田清輝「コラン先生追憶」(『美術』第1巻第2号1916年12月)(17) たとえばウィーン世紀末の画家グスタフ・クリムトの場合,《17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像,日本風の額付》(1891年作)のようにまず額縁において日本の金地表現を取り込み,《ユーディットとホロフェルネスI》(1901年作)そして《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I》(1907年作)と徐々に画中へ金彩が侵入していく過程がみられる。つまり額縁という装飾のための塗料であった金が,画面を構成する重要な色彩として扱われるようになったことを端的に示しており,黒田清輝ら日本の近代絵画と直接の関係はないにせよ同時代のパラレルな現象として注目したい。(18) 佐藤道信「橋本雅邦評伝“心持ち”の画家」(『日本の近代美術2日本画の誕生』大月書店1993年6月)および(注9)高階氏論文(20) (注8)文献。引用は『日本美術院百年史二巻下』(日本美術院1990年12月)所収の山口静ー氏訳による。(21) 「岡倉覚三氏の演説J(『日出新聞』1892年3月24,25日)-247-

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