⑲ 救苦を主題とする中国日本古代仏教版画の系譜研究者:早稲田大学非常勤講師福原庸子(一)はじめに本研究では救苦を主題とする仏教版画の遺品中,観音信仰に関連するものが特に多いことと,それが「一心に念ずる」という信仰心と,印刷の「繰り返し」の作業との本質的な共通性に起因する可能性が強いことを指摘する。これまで筆者は多数印造された版画の中でも出相観音経と称される図入りの観音経(法華経普門品の別称)に注目してきた。同じく大量摺写が行われた法華経がその書写による流布を勧奨し摺写は徳を積む作善の業とするのに対し,観音経は観音を称念することでの現世利益を教えの根幹とするものであり,法華経諸品中異質な存在なのである。観音経の特質から,彫板印刷が流布や需要供給のみを目的としていたとは捉え難く,唱名を重ねる様に繰り返し刷る事による霊験増強も期待されていたのではないかと考える。従来の出相観音経の研究では主に図柄の比較による出相観音経のみの系統づけがなされてきたが(注1),本研究に於いては特に霊験のあるとされた陀羅尼関係の仏教版画諸例にも注目し,出相観音経を救苦版画の系譜の中に位置付ける。(二)観音信仰の特異性観音の名号を唱えることで得られる効験に特徴的なのは,薬師は病気平癒,地蔵は息災延命であるという様に限定されておらず,あらゆる災難からの救済が約束されていることである。すなわち,火・水・風・刀杖.羅刹.枷鎖・怨賊の七難を免れ,三毒(悪心)から解脱し,男女児を想いのまま授かる福徳を得るのである。さらに観音は,現世に応じた三十三の姿に変化して衆生を教化する。称名の功徳には例えば観無量舟経の説く「南無阿弥陀仏」などもあるが,これは現肌を稿土として遥か彼方の極楽往生を願うものであり,観音による現世における速効的・普遍的な救苦与楽とは異質であるのは明白である。西晋の竺法護,後秦の鳩摩羅什により法華経が漢訳された後,すでに東晋末には観音による諸難救済の信仰はかなり高まっていた。危難を免れるために観音経が繰り返し誦されたことは『高僧伝」(梁代慧絞撰),『続高僧伝』(唐代道宣撰),『法苑珠林j(唐代道宣撰)などの霊験調に無数に収録される。一方で,より速く効率的な誦経の-250-
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