鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
263/747

内題に「凡欲讀経先念浄口業真言口遍」とあることから,読経の際に先ず真言を唱えることが重視されていた事が判る。巻尾には王玲という人物が両親の為に咸通九(868)年に普施した旨が刻される。施主は,金剛経に荘厳な扉画と神秘的な呪文を加えてその効験を高めようとしたのであろう。遺品はこれ一点のみ知られるが,彫板印刷されたという事実は複数制作された事を推測させ,何巻も刷ることでより一層の霊力増大が期された可能性がある。五代から北宋にかけて仏教文化の栄えた呉越国では,国王錢弘{叔(929-88)によって一切如来心秘密全身舎利宝偲印陀羅尼経(大正新修大蔵経一九)が84000巻も印刷された。1924年杭州西湖雷峰塔が倒壊した際,「(前略)呉越国王錢弘{叔造此経八万四千巻捨入西関埠塔永充供養乙亥八月日記」と刻銘された扉画を持つ版経が,実際に塔の瓦の穴の中から発見されている〔図2〕(注8)。年記の乙亥は開宝八(975)年に当る。扉画が図示するのは,宝徳印陀羅尼経の内容で,仏陀が崩れた朽塔の跡から光明が現れるのを見て,塔中に納められていた心陀羅尼印法要の功徳を説き,宝徳印陀羅尼を口授されたという話である。この陀羅尼経には書写読誦し,塔内に安置し,塔を礼拝供養すれば罪障消滅,諸仏の衛護を得ることが説かれており,錢弘{叔はまさに教え通りに実践したわけであるが,経文のみを書写するのでなく,図を以て具体的に視覚化した陀羅尼経を何万巻も印造した規模と労力の大きさは,その様に摺写を繰り返せばそれに見合うだけの果報が必ずやもたらされることを充分に意識していたことを物語っている。錢弘{叔による同経の印造は,顕徳三(956)年にも行われ(注9)'銅製宝医印塔の遺品では,「呉越国王錢弘{叔敬造八万四千宝塔乙卯歳記」(955年)の銘を有するものが日本に数点将来されているという(注10)。敦煙出土の観音関係の版画(五代)にも繰り返しによる益得増大のための印造であったことを示唆する作例がある。帰義軍節度使として五代から宋初にかけて敦燻地方を統治した曹元忠が開運四(947)年に刻工雷延美に彫字させた大慈大悲救苦観世音菩薩像(注11)である。観音像の下に刻された曹元忠の銘文は,この印造が地域の安泰,東西路開通,厭疾消散など極めて現実的な祈願の為であった事を記す。この版画は相当数刷られた様子で,上段観音像を九枚貼り合わせた例や,銘文のみ印刷したものなどを含め数点が遺存することからも(注12),作善の為の大量摺写というよりは印刷術を以て祈願を繰り返し,霊験の高い観音像を複数作製することで確実な諸願成就を期待したのだと思われる。-252-

元のページ  ../index.html#263

このブックを見る