は•…••諸天龍王の擁護する所となる」(注15)という随求陀羅尼の功徳を祈求実践した図展離字」と記され,末尾に「天成二年」(927年)の年記を含む墨書を伴うことか(四)陀羅尼護符と観音信仰陀羅尼を復唱するように霊験増強を期して大量印刷したとみられる諸例について論じてきたが,ここで,近年中国での発見が複数報告されるものの,あまり研究対象とはされていない救苦仏教版画の遺品について述べたい。中国では陀羅尼経児図というような呼ばれ方をしている数種の版画で,本尊を中心に陀羅尼を配す曼荼羅のような図式である。8世紀半ばの制作と言われているものが1944年に四川成都の唐墓から発見され,現在中国歴史博物館に所蔵されている(注13)。中心の菩薩像は損傷があり明瞭ではないが,持物から大随求菩薩(大正新修大蔵経・図像一)であることは間違いなく,そのまわりに梵字の陀羅尼が旋写されていることから,これは『阿娑縛抄』(大正新修大蔵経・図像九)大随求の條に「以梵字大陀羅尼旋書」と説明されている随求陀羅尼図の一種であると考えられる。後述する随求陀羅尼図諸例とも共通点が多い。随求陀羅尼は,その無遍の威力の為広く雌崇され,数多くの霊験諏を残す(注14)。そして大随求菩薩(略称随求菩薩)とは,現図胎蔵界曼荼羅に於いて観音院に居する観音に近い性質の菩薩であり,その真言を唱えることで諸願が叶うとされた。さて,この成都出土の遺品には,「成都県龍池坊下家印売児本」等の文字が刻されており,当時,このような仏教版画を販売する店が存在していたことと,この陀羅尼がそれだけ信仰を集めていたことを示す。さらに,発見された時に墓中の死者の右腎上に置かれた銀錫(腕輪)の中に納められていたことから,この兒本が護符として身に付けられていたことも判る。これは正しく,唐代宝思惟訳随求即得大自在陀羅尼神呪経(大正新修大蔵経二0)に説かれるところの「若しよく書写して頸に在く者,若しは腎に在く者ものであることに注目したい。五代の遺品では,1992年に洛陽の墓中より出土したものが報告されており〔図3〕(注16),刻銘に「……比随求陀羅尼……若人依法書写倶戴所有悪業重罪併得消除……」と,書写し帯持すれば功徳のあることを記しているが,これも発見時には,死者の頭骨右耳下(経に説くところの頸か)に置かれていたことが確認されており折り痕を残す。刻記には更に「歳在丙戌未明之月初有八日報国寺僧知益発願印施布衣石ら,僧知益の発願により926年(丙戌)に離字されたことが判る。この随求陀羅尼図は,中央円相内に八腎の随求菩薩が蓮台上に坐し,その右手には-253-
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