もととししゅうとうれんしゅうほけぎしょ⑳ 定家様筆跡の分類と美術史上の意義研究者:財団法人五島美術館学芸課長名児耶はじめにわが国では,はじめ独自の文字を持たなかったが,中国大陸から伝播した漢字を使いこなすようになり,六世紀末期には,自由に文章を作る様になっていた。それは,聖徳太子(574-622)の書き残したわが国最古の肉筆遺品「法華義疏」によって明らかである。また,漢字の一字ー音を利用することからはじめ,次第にわが国の言葉や和歌のイメージに合う表現を漢字にもとめ,草書体から仮名を生み出した。仮名は,わが国の独自の文字と言ってよいであろう。仮名文字の成立は,聖徳太子の時代からおよそ三百年後の十世紀はじめ平安時代前期のことである。仮名文字が出来上がると,さらに美しい仮名の姿を追求し,平安時代中期には典型が現れ,それからの百五十年間は仮名の造形上の美しさが花開く全盛期となった。しかし,平安時代末期十二世紀後期には,やや形式化した実用向きの仮名が中心となった。以後は,型を重視した時代が続き現代に至っている。この平安時代末期から鎌倉時代はじめに,国文学で活躍した藤原定家(1162-1241)が,彼独自の仮名書風を作り出した。漢字にも定家独自の特徴があらわれているが,その書風が,室町時代後期に突然に復活しほかの書風には見られない継承がなされた。いわゆる定家様の展開である。その特徴は,まず,線に細太の差が大きいこと,字形の横画は,いつも平行で,普通の字に見える右肩上がりがないこと。仮名はあまり連綿がないことなどである。藤原定家が築いた書風は,定家の時代では,定家自身とその周辺の人々によって書かれたと推測できる。それは,定家の筆跡とする遺品が数多いことからわかる。すなわち,それらをすべてを同一人とするには無理があるが,同時代の書風には違いなく,複数でそれらを書き上げたと考えることができるからである。たとえば徳川美術館所蔵の個人の家集「基俊集付登蓮集」は,定家様の書であり,定家か,ごく近い人が同時期に書写したはずだが,二つの歌集,「基俊集」と「登蓮集」の筆致に違いがあり,複数の定家様の書き手がいたことを示している。このことは,定家が歌の家柄に生まれ,歴史上の個人の家集をできるだけ多く集めていかよう定家様の登場明-264-
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