鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
276/747

さだためのりふささんじょうにしさねたかばんぼうぜんしょなければならなかったことを考慮すると,自分の書写だけでは間に合わず,複数の書写スタッフを抱えていたことが容易に推測でき,必然といえよう。こうした事情は,定家の父の俊成から始まっているのである。俊成と定家が同じように書写スタッフを持っていたことは,定家の子孫冷泉家に伝来の写本類の吟味からも最近明らかになってきている。ところが,定家の時代から後の鎌倉時代の筆跡の中に,定家様はほとんど遺っていない,わずかに定家の曾孫にあたる定為法印(-1260-1326-?)が,江戸時代の記録では,定家様の筆者とされるが,その真筆を確認することができない。ただ,手鑑の中に定為法印筆と伝承のある断簡をよく見かける。それらは,確かに定家様の特色をわずかに見せ,定家周辺の書風の一部には似るものの,定家自身の書や後世の定家様とはかなり趣が異なる。つぎの室町時代では,まず一条教房(1423-80)が定家様の書き手として扱われている。室町時代後期の公家三条西実隆(1455-1537)の日記『実隆公記』には,一条教房が書写した『後撰和歌集』の色紙は,定家の筆跡とよく似ていたと記しているが,現存する教房の短冊は,伝定為法印の筆跡に近く,一条教房として伝わる断簡類も伝定為法印の筆跡に近い。実隆の見た筆跡がどんな種類のものかは不明だが,おそらく,それほど定家自身の書にそっくりな書風ではなかったと推定できる。そして,室町時代の末期になると,冷泉家七代の為和が誇張した定家様を書き始めた。明らかな定家様の登場である。これ以降は,多くの定家流の筆者が登場してくる。それらの人物については,江戸時代,元禄七年(1694)初版の美術百科辞典『万宝全書』の巻五に,わが国書道史上はじめて書流を取り上げ,その中の「本朝古今名公古筆諸流」に「定家流」の人々としてその名を以下の通り挙げている。京極黄門定家卿冷泉家為広藤谷殿為賢久我殿通式竹内殿孝治八幡山滝本坊怪々翁小堀遠江守宗甫連歌師昌琢二条為世同為和上冷泉家為清薮殿嗣光高松殿好仁豊後連歌師寛佐-265-同定為同為満一条教房山科殿言綱烏丸殿光広同姓大膳正正俊連歌花本玄陳同為道同為頼久我殿通前日野殿資勝同光賢串崎隆光

元のページ  ../index.html#276

このブックを見る