鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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ためかずためつなためひさためむらためひろため芦よためただためますである。和歌の流れでの,定家様継承の中心は冷泉家で,定家様を復活した室町時代の冷泉家七代の為和からはじまり,一部を除いて,冷泉家の歴代が定家様の書風を書いて明治時代まで続いている。為和の先代為広も『万宝全書』では,定家流に挙げられるが,確認できる遺墨には定家様は認められない。為和のつぎの八代為益は定家流に挙げられていない。現存遺墨でも未だ定家様を確認できない。為和の孫の九代麗誠が,為和に似た定家様で,線の太さをより強調している。その子十代鷺贔も為満とよく似た定家様である。一代とんで十二代の為清は,今まで遺墨での定家様を確認できなかったが,今回の調査で,短冊の中に定家様を認めることができた。十三代為綱以降は,書流系譜諸本に見えないが,遺墨で確認できる。為綱は,為和から為頼までの太さ強調の書と異なり,少しおとなしくなるが,藤原定家の筆跡に近づこうとしているようだ。十四代為久は,さらに定家の筆跡に近いものであったようだが,あまりに似ているので,霊元天皇によって定家流を書くこ、とを停止させられたと伝わる。今までに見た遺墨は,すべて定家様ではなく,その事実の確認は未だできない。十五代の為村は,冷泉家中興の祖。日本各地をまわったこともあり,多くの遺墨がちらばっている。同時に,地方での多くの弟子に定家様の書き方を指導したことも考えられる。なお,定家様を書かなくなった父を意識してか,彼の書は,定家様の特色を引継ぐが,それまでの定家流とは異なったものである。幕末の『筆跡流儀景図』(静嘉堂文庫蔵)では,定家流から派生した冷泉流の祖とされている。実際,十五代為村以降,二十代為理までは,為村の書風を少しづつ変化させつっ,つぎつぎと引き継いでいる。その基本は,線の太い部分をより強調し太くしてゆくことである。親子の筆跡はよく似るが,一代とばして較べると,その違いは明瞭となる。そして,為理は,太い部分を見事にまで装飾化した定家様,冷泉流を作り上げている。それ以後は,誇張した部分がおとなしくなり,装飾性はなくなった。これら,冷泉家の人々と親類関係にあって,定家様を書いたのが藤谷為賢,入江相尚等。和歌の上で交流があってその書の影響を受けたと思われるのが,山科言総,日野資勝,久我通前,烏丸光広,烏丸光賢,四辻季継,高松宮好仁親王,ほかのおおかたの貴族と,里村昌琢,里村玄陳ほかの連歌師達であろう。そのほか,加茂杜の神官梨木祐為や松坂屋の祖の伊藤裕良など宗教家や商人,木下利忠や横瀬貞臣等の武家ほか広い分野の人々が冷泉家を経由した定家様を書いている。-269-

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