鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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魏•510年)などがある。また,龍門石窟では仏寵の側の壁面に碑形を彫って造像注(1) 中国の四面像や造像碑については以下の研究がある。大村西崖『支那美術史離塑(2) 石碑については以下の研究かある。関野貞『支那碑禍形式の変遷』(座右宝刊行会,すでに東魏は滅んでおり,「大魏」と称するのは西魏だけで,正平郡も西魏の支配下にあった地域である。篇』(国書刊行会,大正6年)245頁,281■282頁,296頁,357頁。浜田耕作「西魏の四面像」(『史学研究会講演集』第4冊所収,明治45年)。松原三郎「四面像の一考察」(『増訂中国仏教彫刻史研究』所収,吉川弘文館,1966年),同「北周四面像の一形式」(『中国仏教彫刻史論』所収,吉川弘文館,1995年)。石松日奈子「中国の造像記について」(『未央』3号,1990年)。張硯「中国映西省耀県の碑林一薬王山の彫像碑ー(一)(二)」(『佛教藝術』205号,1992年)。Wong,Dorothy C. "The beginnings of the Buddhist stele tradition in China" (1995) 1935年)。塚田康信「碑の起源と形式の研究」(『福岡教育大学紀要』28・29号,第五分冊,1979• 1980年)。大橋修一「“柩銘”試探」(『千代田学園研究紀要』第7号,1994年)。(3) 造寺碑としては「暉福寺碑」(北魏•488年),石窟寺碑としては「南石窟寺碑」(北記を刻むものが多くみられる。例えば古陽洞内「始平公造像記」(北魏.498年)。-285-

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