鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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4月に父尚信が病死し,15歳でその遺跡を継ぐが同年11月15日剃髪して養朴と号した。れた法眼,法印の款記あるものをとりあげることはできる。また常信は慶安3年(1650)よって作品の印章に「養朴」とあるものは1650年以降のものと判断される。しかし「法印」落款のあるものに「養朴」の印章が捺されている作品もみられるため,「養朴」の号は常信の画業のほぼ全体にわたって使用されていることがわかる。さらに法眼,法印の款記は天皇や将軍などのより高位な人からの御用や特殊な事情によって記されない場合もあろうから根本的な制作年の判断には用いることはできない。したがって本研究の作業は寺院,美術館所蔵のものや,所在の明確な個人所蔵を含めて図録等に掲載されている常信作品の図版を集成することからはじめた。そして諸作品を検討した結果,常信の画風はその傾向によって大きく二つに分類することができると判断した。その一つは探幽様式の影響下にあるとみられるもの,そしてもう一つは「装飾性」あるいは先に述べた家煕の「精シキモノ」があらわれているとみられるものである。これまでの研究では,この二つの特徴を画業の前半期と後半期にあらわれるものとされていたようである。その点に留意しながら,具体的に常信の作品をみていこう。検討する作例としては障壁画をとりあげるのが妥当であろう。本研究者が現在までに知りえた常信によって制作された障壁画の作品をその存否を問わずにあげてみよう。京都御所・内裏障壁画制作は承応3年(1654),寛文2年(1662),延宝3年(1675),宝永5年(1709)の4度参加している。さらに宝永度の内裏造営時には仙洞御所の障壁画も制作している。また江戸城本丸の障壁画を万治2年(1659)に制作し,大徳寺玉林院の礼之間「楼閣山水図」を寛文9年(1669)に,南禅寺南禅院の上段の間「松竹梅」中の間「龍図Jを宝永2年(1705)に(注4)揮奄した。また三渓園臨春閣の「灌湘八景図襖」は障壁画として制作されたものではなく当初,屏風絵として描かれ後に襖に改装されたという珍しい作例である(注5)。これら障壁画のうち現存するものは,玉林院の「楼閣山水図」と南禅院の「松竹梅」および「龍図」である。探幽とともに描いた玉林院画〔図1〕は常信34歳時の作品であって,探幽様式の直載的な影響がみられるものである。河野元昭氏は玉林院での常信は「対象の有機的関連や空気遠近法をほとんど無視して,非常に平面的な画面を作」っていて,それらは「探幽晩年の画風と共通する部分が多い」とされている(注6)。確かに近景の樹木や岩と中景の楼閣,遠景の山はその画面上に置かれた位置によって,前後感がようやく-290-

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