認識できるのであって墨の濃淡も淡墨を主に用いた一様なものである。この画風は探幽による大徳寺本坊大方丈の障壁画「山水図」〔図2〕といった作品にみられる,いわゆる「滴洒淡泊」という性質があらわれたものであって,これらは常信前半生の作品に発現されているものとしてとらえることができよう。次に南禅院の「龍図」〔図3〕をみてみよう。これは常信が法眼位にある70歳時の作品である。狩野派における常套的な雲龍図であるが,描法を細かにみると龍の形態は雲に隠れながらも岩をつかむ爪や鱗など明確に描写しており力強い。さらに濃墨はむやみに使われているのでなく波頭や岩の前後を規定するものとして引かれているのである。渦巻く雲として描かれた余白も一様に白く抜けたものでなく,また吹墨にも若干の濃淡がつけられている。このようにモチーフの形態は探幽以来のものを利用していながらも,こと細かに手を加えられた画面には探幽の「灌洒淡泊」という性質ではなく,むしろ常信の「装飾性」と「繊細」さがみてとれるだろう。また宝永度の内裏造営時に常信が描いた「賢聖障子」は現存しないが,家煕の依頼で描いたその控図3幅が陽明文庫に所蔵されている。これらの人物描写には作為的な筆止めや形態把握のための無関係な線が目立ち(注7),やや描写過剰の面がみられる。このことも伝統的な画題ながら探幽の淡泊さという点からは距離を感じる。このように常信の画業において,前後半期それぞれの制作年の明確な代表作といえるものには,その画風の違いが確認できた。しかしその変換点はどの時点であるのだろうか。大英博物館所蔵の「布袋・雉子・鶏図」の解説(注8)で安村敏信氏はこの作品は宝永元年以前のものと推定されるとし,探幽晩年のスタイルの祖述を認めることができるという。しかし布袋の輪郭線にすでに繊細さが認められるとし,常信の繊細な画風が早期から形成されたことが窺えるとも評されている。このような判断からすれば例えば福岡・妙楽寺所蔵の「琴棋書画図屏風」は「養朴」の印章を有するものであるが,人物,鶴のモチーフは明確にあらわされ微細に描写されながらも,楼閣や松などの樹木の幹が余白によって画面上部で省略されている。したがって探幽のスタイルを含み,常信の繊細を合わせもつもので,先の大英博物館所蔵作品に近い時期に制作されたとみるべきものとされようか。以上のように常信の画風は玉林院画にみられる探幽様式を直載踏まえたものから,探幽スタイルを含みつつ常信の繊細さをみせるものへ,そして南禅院画にみられるような装飾的効果の強い常信独自の画風が顕著なものへと展開したと想定することがで--291--
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