鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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2.探幽作品と常信作品の異同9)。鬼原氏は探幽の水墨画の余白部分に注目され,描かれた部分と描かれない部分ときる。しかし,これまでの常信作品の諸解説にみられる「装飾性」や「繊細さ」という評価は,主にモチーフの形態把握にあらわれた描線,つまり筆法に向けられてきた感がある。常信の画風を検討するとき,その点だけに留意すればよいのだろうか。家煕の評価である「精シキモノ也」はそのことだけを述べたものであるのだろうか。そのことをさらに検討するため次に常信作品を探幽作品との比較をもって考察してみたい。先般,鬼原俊枝氏によって探幽作品の解釈に関する注目すべき観点が提示された(注の関係,あるいは筆墨と画面地との関係を検討し,探幽がどのような水墨画の新しい視覚を作りだしたのかを明らかにされた。そこでは現代の私たちが探幽画を評するとき,ややもすれば描かれた部分のみに注目してしまう傾向にあることを指摘され,探幽が不透明な素地である画面地そのものに新たな認識をもちえたことを述べられている。私たちは常信作品に対してもモチーフを形作る描線などに注目しがちであって,画面空間全体に目を向けることをおろそかにしていたのではないかと思われる。それでは特に余白あるいはモチーフの背景(周辺)である画面地のもつ効果について注目しつつ作品を検討してみたい。寛永20年(1643)頃の制作と想定される(注10)探幽による徳禅寺中之間の「龍虎図」のうち「龍図」〔図4〕と,先にみた常信による南禅院の「龍図」とを比較してみることとする。ともに龍の顔や胴体などの形態は同工なものであって常信が探幽の絵様を学んでいることがわかる。しかし画面全体をみると,探幽の「龍図」では龍の顔と爪の位置関係は不明瞭であって墨の面の奥から爪が前面にあらわれているようにみえる。そして墨の滲みが雲をあらわす余白の画面地に溶け込み,画面周辺の雲へと拡散していく。この画面では龍の存在する場と雲のある空間が渾然としていて探幽の空間把握の特色がみてとれるだろう。一方,常信の「龍図」では画面下法の波から岩,それをつかむ爪へ,そして龍へと段階的に構築された空間把握がなされていることが指摘できよう。さらに雲をあらわす余白は龍の周囲を取り囲む空間であることも了解できる。ここでは描法に細かな配慮をみせながら,なおかつ画面内での位置関係が明確にされる。いいかえれば本作は合理的な画面配置をもっているともいえよう。-292-

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