鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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また水墨画だけでなく金地画面の濃彩による作品でも同様な観点で比較してみよう。探幽筆「桐鳳凰図屏風」(サントリー美術館)と常信筆「桐鳳凰図屏風」(東京芸術大学)では桐や鳳凰の各モチーフに関して常信は探幽のそれを踏襲している。しかし常信作品の鳳凰の羽などの微細に着色された部分をみると常信の装飾性かあきらかに表出しているものとみられる。さらにモチーフの描き込まれていない部分に注目すれば,二作間には異質とみなすべき点がある。探幽作品では金地に施された多種の箔の関係をみると特に画面周辺部の切箔から籾箔や砂子への境界部分が微妙に溶け込むような技法が施されており,背景の空間が渾然としたものとなっている。このような探幽作品の金地構成での特徴は「四季松樹図屏風」(大徳寺)にも総金地にわずかに雲の形を残して,そこに切箔を撒いて空間の深みを暗示する技法と共通するものである。一方,常信の場合〔図5〕は金雲の形態が明確なだけでなく,箔と別種の箔との境界線を明確にあらわしていることがわかる。ここでも常信は画面全体に曖昧な部分を残さず桐や鳳凰の位置関係とともに特定の空間にこれらの主題を描いているといえよう。いいかえれば絵筆で描かれたモチーフと描かれていない背景の描写はともに構築的に構成されているのである。さらに素地に淡彩と金地着色との違いはあるが,同主題の作品では,探幽の「波涛水禽図屏風」(静嘉堂文庫美術館)と常信の「波涛図屏風」(出光美術館)にその性質の違いがあらわれている。探幽作品では画面上方の波頭が次第に素地に溶け込み,波と雲とが渾然一体となって水平線の位置も不明瞭である。常信作品においては岩や波,雲の位置関係が整理されているため,画面上方の波は雲で一旦隠れはするが前景の波と同一の平面上に存在していることが了解されるだろう。このように探幽作品では余白が余韻を生みだして画面に奥行きが与えられているが,常信作品においては各モチーフが描かれていない部分でも,画面内での各構成要素の連結が図られているのである。したがってこれらの作品については探幽と常信の画風は異質のものだとみなければならないだろう。そして常信については限定された枠内の画面全体に構築的に一つの空間を描き出しているともいえよう。つまり描かれない部分である背景の地にも目を配り,南禅院の「龍図」でみたように,画面全体で余白も含めて常信は技巧をこらしているともいえる。この特徴は先に問題にした家煕のことばにあった「精シキモノ也」というニュアンスに合致しているものと本研究者は考えたい。-293-

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