3.常信における画風変化の意味さらにこの常信の画風が発現されるのは「法眼古川斐筆」という署名のある石川県立美術館所蔵の「七人狸々図」や「法眼養朴筆」の署名のある「唐美人図」(東京国立博物館)が描かれた時期であると考えられる。「七人狸々図」では小画面ながら雪上の人物の描写は雪を被った地面と連結し画面上で分離していない。また「唐美人図」では樹木から岩,地面,人物へと連結して明解に構築された空間を生みだしているといえる。これらの特徴は上でみた常信の画面構成法に通じるものであり,とくに常信作品のうち「法眼」および「法印」の款記をもつものに顕著である。その性質は常信が法眼位を得る前後の時期からあらわれたものだと想定することができるだろう。それではなぜ常信の画風は上記のように変化したのだろうか。まず常信自身の狩野派内での立場の変化に注目してみる必要がある。かつて本研究者は狩野派における常信の序列の推移を検討したことがある(注11)。常信は宝永度の内裏造営で最も格式の高い紫寂殿に「賢聖障子」を描く権利を得たことで,狩野派の最高実力者となったとみることができるが,常信はやすやすと最高位まで昇ったわけではなかった。探幽在世中,常信は木挽町狩野家の当主として狩野派内において順当な地位を占めていたが,探幽没後に一時,その地位が低下した。しかし宗家中橋家に起こった不慮の状況の変化によって常信の地位が上昇し,中橋家の当主であった主信が成長しても常信はその地位を譲らなかったのである。そして後に常信はその地位を盤石なものとしたが,それは幕末期にいたるまで木挽町家が強大な勢力を保持する地盤を作ったともいえるのである(注12)。このことがまず常信の画風の変化に対する一つの要因ともいえよう。つまり狩野派内での地位を強固にした常信が自らの画風をもって派内を統一したといえるのではないか。これは探幽が狩野派内で絶対的な地位を築き,指導的立場を得たことと画風の変容を成したとみられる時期が一致するという指摘(注13)と同様なことだといえよう。先にみたように常信の画風の変化の著しい法眼,法印位時代のものと常信の狩野派内における立場の上昇は軌を一にしているのである。しかし注意しなければならないのは常信が幕府の御用絵師だということである。常信の意のままに幕府御用の絵画制作ができるはずはない。そこには何らかの幕府の政策が関与しているはずである。近年,政治史においては幕府と朝廷の関係についての研究が進展している。江戸時-294-
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