鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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代籾期においては元和元年(1615)に発布された「禁中井公家諸法度」や紫衣事件にみられるように幕府は朝廷に対して高圧的態度をとっていたが,17世紀後半とくに5代将軍綱吉の時期から幕府と朝廷との協調融和がみられはじめる(注14)。さらに家宣の代では,関白近衛家煕の娘,天英院煕子が御台所となり,もっとも朝廷と幕府の関係か密接になった時期とみられている(注15)。正徳元年(1711)の江戸城堀重門が京風の四脚門に改築された(注16)ことからも窺えるように,この時期の幕府の政治向きは文化政策も含めて大いに京風をとったとされている。その具体的な特色は明確にできないが,常信の画風変化と無関係ではなかろう。家煕の述べた「養朴ハ老後二至ル租,書力委シクナリテ,死スル一年前ニカ、セタル三幅対ハ,至極精シキモノ也,」という時期(1712年前後)にも一致する。以上のように狩野派内で指導的立場に立った常信は,幕府の意向によって画風の変革を打ち出せたともいえよう。探幽においても,家光の意向によって建築装飾に桃山様式の豪華な美から簡潔な美を求めるような文化政策がとられたのであり,探幽は時宜を得て灌洒な作品へ様式転換を成しえたのである(注17)。しかしこの幕府の文化政策の変化の実際と御用作品の具体的な関連は,建築史や工芸史を含めた広い視野でのより精緻な考察を要するだろう。おわりに常信作品の装飾性や繊細さは単にモチーフを描き出すことにあらわれただけでなく,画面全体を構成する空間すべてに施された性質であって,探幽作品がもつ淡泊灌洒なものとは異なる趣を作品に与えている。そして常信の示した画風は精密に描かれるため合理的なものとなり,それだけ曖昧さがなくなるのである。「装飾」ということばは狩野派の作品に当てはめてみれば,桃山時代の豪華な装飾から寛永文化の灌洒な装飾ヘ,そして本研究でみた宝永・正徳期に常信がみせた「精シキ」装飾へとその形を変えていったともいえよう。常信は幕府の意向にそった画風を展開する必要があり,またそれに応えるだけの資質と力量を兼ね備えていたのである。しかし常信のみせた画風は,次代の将軍吉宗における政策の変化,つまり家宣政治の払拭ということによってまた変容にむかうことになるのであろう。常信の作品は現存するだけでも膨大な数量であり,今回の調査でも遺漏したものは多数あることと思われる。さらに「常信縮図」の検討や常信以後の狩野派絵師たちがどのように常信作品を受容していったかなどの問題は山積している。-295--

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