鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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注(2) 岡倉天心「日本美術史」『岡倉天心全集』第四巻,平凡社,1980年。(3) 『愧記』享保十三年戊申五月四日條(『史料大観』第三巻,哲学書院,1900年)。(4) 桜井景雄『続南禅寺史』(大本山南禅寺,1954年)所載の「南禅院並御霊殿之図画」(5) 鈴木廣之「三渓園臨春閣障壁画の復元的考察」『美術研究』339号,1987年。(6) 河野元昭「探幽を中心とする大徳寺玉林院障壁画上」『美術研究』298号,1975(7) 川本重雄他「賢聖障子の研究上・下」『国華』1028• 1029号,1979年。(8) 『秘蔵日本美術大観三大英博物館III』図版番号8• 9 • 10,講談社,1993年。(9) 鬼原俊枝「狩野探幽の水墨画におけるふたつのヴィジョン」『美術史』137号,1995343号,1979年。(14)今谷明「終章王権回復への道」『武家と天皇』岩波新書286,1993年。(15) 久保貴子「宝永・正徳期の朝廷と幕府」『日本歴史』538号,1993年。(16) 平井聖「江戸城の諸御殿,付・江戸城諸御殿造営年表」『江戸城障壁画の下絵本45, 1964年。(1) 河野元昭『国史大辞典」,狩野常信項。に拠る。年。年。(10) 河野元昭「徳禅寺の狩野探幽筆障壁画」『日本美術工芸』441号,1975年。(11) 拙稿「狩野派における序列の問題一養朴常信の場合」『芸術学学報』3号,1996年。(12) 常信の長男・如川周信は木挽町家を継き‘,次男・随川本信は家宣の寵を得て松本姓を賜り宝永4年(1707)に別家し浜町家を興した。そして翌年,他家を抑えて最初の奥絵師格となった。これを画策したのは常信であったのはいうまでもないだろう。(13) 榊原悟「江戸初期狩野派をめぐる問題一『本朝画史』と関連して一」『MUSEUM』文篇』東京国立博物館編,第一法規出版,1989年。村井益男『江戸城』中公新書(17)松木寛「第五章画壇の帝王一探幽」『御用絵師狩野家の血と力』講談社選書メチエ30,1994年。-296-

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