鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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注花蝶文の文様と関わりなく龍文が彫られたのは,素三彩が黄彩・緑彩など単色釉磁と同一のカテゴリーとして,施釉および暗鑢への窯詰めへ送り込まれたためと考えられるのである。むすび康煕官窯は,明末清初の景徳鎮民窯を下敷きにして樹立された。そして,民窯が作りだした新しい息吹を吸い込みながらも,磁器生産を宮廷および皇帝という限られた対象へ向けていったのである。黄色は明代以来皇帝だけに許された特別な色であり,陶磁器のみならず服飾においても黄色の使用には厳しい制限が定められていた。素三彩の流れをみると,官窯の組織が軌道に乗り発展してゆくとともに,黄釉・緑釉を中心とする素三彩は自ずと皇帝の象徴である黄釉龍文磁器を生産の中心にしていったのではないだろうか。同じ多彩色磁器でありながら,素三彩は伝統的な方向へ,五彩・粉彩はヨーロッパ工芸や清朝絵画を取り込んだ新しい様式へと,次第に進む道を異にするのである。このような動きは,薙正期以降の素三彩が,黄緑二彩の龍文主体になってゆくことにもあらわれている。特に黄緑の龍文磁器は,康煕期とほぼ同じ図様で清末まで作り続けられる。官窯磁器の二つの流れは,異民族王朝として外来文化の摂取に積極的であったと同時に,漢民族の伝統を重んじその継承者たることをつねに誇示していた,清朝文化の二面性を反映したものとみることもできよう。官窯の発展に伴い伝統的な方向へと展開する黄釉磁器の中にあって,民窯から新しい色を,新製の画譜から新しい文様をとりいれた康煕素三彩は,清朝官窯の伝統と革新という二つの流れの境界に生まれた磁器といえる。(1) 明末萬暦帝の没年1620年から清朝に官窯が復活する1683年までの時期は,明と清の様式的過渡期として「トランジショナル期」と呼ばれている。(Jenyns, Soame "The Wares of the Transitional Period Between the Ming and the Qing: 1620-(1) 683", Archaives of the Chinese Art Society of America, vol.IX, 1955.) (2) 素三彩は明代弘治年間(1488-1505)にはすでに始められており,正徳年間(1506--307-

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