もすべて後補である。腕釧は亡失。また,台座は蓮肉・蓮弁が当初であるほかは後補であり,光背も後補と考えられる。く勢至菩薩像>観音菩薩像と対になるものであるので,特記すべき相違点のみ記す。両手は胸前で合掌し,腰を左に捻り右足をわずかに踏み出して立っており,観音像と左右対照の姿勢である。保存状態は,髭,表面の漆箔,金銅製の宝冠,胸飾,腎釧が後補。台座も蓮肉・蓮弁を除いて後補。光背も後補。く伝来等〉中尊の両足柄が後補であり,また,両脇侍の柄も後補や彫り直しが認められるため,当初の柄の面は残されていない。したがって,銘なども現状では全く窺い知れない。また,伝来についても全く不詳である。三,様式についてこの三専は玉眼を入れ鋭さを感じさせるつり上がった目を配した理知的な相好や,整った体艦と衣文の彫法などから判断して,鎌倉時代前期の安阿弥様の範疇に属する作風を示していることは明らかである。そこでこうした峯定寺阿弥陀三諄を考察する上で比較の対象となる作品としては,快慶の和歌山・光台院阿弥陀三尊像(注4)や,行快の作例,文暦二年(ーニ三五)の滋賀・阿弥陀寺阿弥陀如来立像や,その後の造立と考えられる大阪・北十萬阿弥陀如来立像を比較例としてとりあげてみる。<阿弥陀如来立像〉まず,腰を右に捻り左足を踏み出した姿勢が正面観において明瞭に看取されることに注目される。快慶,行快の阿弥陀立像ではすべてが腰を右に捻った同様のポーズをとるが,本像ほど体の左右方向の動勢が明らかなものはほとんどない。快慶の阿弥陀像が,衣と肉付けのわずかな方向性で腰の捻りを表出しており,全体としては中尊如来像にふさわしい厳格な正面性を維持しようとする態度が支配しているのに対し,本像では腹部の肉付けとその上を覆う衣のU字型の衣摺の繰り返しの中心線がはっきりと下方が右寄りに表されており,体の中心軸をしっかりと通して正面性を印象づけるよりも,体の動きを表現し往生者に歩み寄る阿弥陀如米の動きを積極的に表出しようとする意図がうかがえる。このことは踏み出した歩幅が大きめの左足の表現において-319-
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