も同様である。こうした動きを表す特徴は,行快の北十萬阿弥陀像にも明瞭に見受けられる。つぎに左大腿部の表現に注目したい。今述べたように本像は腰を右に捻り左足を踏み出す体勢をとっているが,そのため左大腿部を引いた表現がなされる。これば快慶,行快にも共通するが,とくに行快においてはこの部分を深くえぐり過ぎたような感じになっていることが指摘されている(注5)。本峯定寺像においても,右大腿部に比べて左大腿部は不自然なほどえぐられており,この部分の肉体の把握にやや難点があるといってもよい。したがって,行快の作風との強い関連をここで指摘できる。面貌表現においては,髪際部に修補の手が入り髪際線が不明瞭になっている点を復元して考えると,もう少し中央部か下がってわずかに波状を描いていることになるが,こうした髪際の形状は,行快の阿弥陀寺像に極めて近い。また,額が平らでこめかみを強調するようなところも同様である。眉においても,カーブが緩く両側方への勢いがあり,両眉が接する角度が大きい点も,阿弥陀寺像と共通する(快慶は眉のカーブが大きく両眉の接する角度がきつい)。また,鼻梁と眉とがなだらかにつながらず折れ角をもって接続し,鼻梁と眉との接点よりも目頭の位置が下がっている造作も,快慶には類似例がなく行快との共通性が強い。一方,口元を凹ませたところや頬の肉付けは,行快の阿弥陀寺像にメリハリに富んだ緊張感が感じられるのに対し,峯定寺像にはそれほどの緊張感はなくおとなしい造形となっている。また,上瞼よりも眉が出,全体に奥行き感が控えめで平板な感さえある面貌の肉付けは,総じて行快との共通点が多い。しかし,行快においても生彩に富んだ阿弥陀寺像と,やや沈滞した趣の北十萬像との間には若干の差異が認められ,峯定寺像は両者の中間的な特徴を示していると言うことができる。手の表現においては,快慶の諸像がいずれも右手を構える位置が高く指をすらりと伸ばした清楚な表現が特徴であるのに対し,峯定寺像は右手を構える位置がやや低くてしかも体の内側寄りであり,さらに第三〜五指を曲げているのが目に付く。ここでも行快の阿弥陀寺像や北十萬像が峯定寺像と同じ手の構えと指の曲げ具合であるのに注意しておきたい。著衣においては,まず胸元の襟の線を見てみよう。峯定寺像では両襟ともほぼまっすぐに表され,北十萬像の襟の垂直な感じと類似する。一方で,快慶や行快の阿弥陀寺像ではこれほどまっすぐではなく,左右への広がりを示すカーブを描いており,胸-320-
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