元が広く見える。また,その下では,左右ニカ所でたるみをあらわしているが,この表現は,快慶の後年の作にも見られ,行快に受け継がれていく形式である。ただし,たるみの形状は異なる。快慶のそれが比較的単純に垂れ下がる形態を示し,晩年の光台院像のみが左側の折り返し縁がさらに折り畳まれるというやや複雑化した表現であり,行快も光台院像を継承しているが,峯定寺像ではいったん垂れた部分がたくし込まれる箇所で両側ともにさらに小さな折り返しを設けており,さらに複雑になった表戟ということができる。一方では,快慶の奈良・光林寺像や阿弥陀寺像で見られた左臆の折り返し部のさらに左方の渦文状の衣文は峯定寺像ではみられない。また,大衣の先端が腹前から左肩に懸かって背面に垂れる部分で,左肩下がりまでを覆うように若干の広がりを持たせた表現は,快慶には見られず,行快の阿弥陀寺像で同様の傾向が見られる特色である。さらに,行快の北十萬像のようにこの部分が肩下がりまで完全に覆って垂れ下がるタイプの像も知られており,その出現時期について指摘があることから(注6)'峯定寺像はまだそこまでは行かない段階であるので,制作時期の推定の目安になる。つぎに,正面で大衣が腹部から両大腿部を覆って舌状に垂れる箇所の表現をみてみよう。快慶の初期ではまさに舌状にふくらみのあるU字型を呈して,嗅の彫りも大腿部の肉付けの豊かさと衣の左右への広がりを強調する方向性を持った表現がなされていたのであるが,後年の快慶では下端部がやや尖る傾向を見せ,衣摺も紐状となって内部の肉体の肉付けを暗示させないような形態へと変容したが,行快もそれを受け継いでいた。峯定寺像もその流れの中で把握することができ,やはりとくに行快の阿弥陀寺像との共通性は高いということができる。さらに裳裾部の表現に注目してみる。快慶初期では裳裾はほとんどまっすぐに垂れ,足の甲にもわずかに懸かるのみで,嬰の折り畳みもあまり強調されず,全体としてあっさりと処理されていた。したがって,すっきりとした軽さが足元に感じられたのである。それが後年になると前後や左右への広がりを見せながら垂下するようになり,足の甲にもはっきりと懸かり,また袈に厚みを持たせて,重たげで装飾的な扱いがなされるようになった。行快も快慶晩年のやり方を踏襲しているといえる。峯定寺像では足の甲に裳裾が懸かり,左右へも裾広がりとなっており,また,裳の折り畳みをはっきりと表現し厚みも感じさせており,快慶晩年から行快へと継承された作風展開の上に位置する手法と判断される。また,右足首の右方で上部への折り返しが表されており,これは快慶や行快の阿弥陀寺像にはみられないものであるが,行快の北十萬像に同様の衣摺があり,--321-
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